土俵は不思議な空間

         
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十秒足らずの闘いに凝縮
心・技・体、そして人生

 土俵は不思議な空間である。直径四・五メートルの円のなかには、さまざまな「勝利へのヒント」と「敗北に陥る落とし穴」が潜んでいる。土俵中央から“電車道”で押し込めばわずか二・二五メートルの距離しかない。ところが、俵伝いに回り込めば、どこまでいっても外に出ることがない。その空間は、俵で仕切られていると同時に、無限でもあるのだ。
 勝負を決する要因の第一は、スピード・体重・パワー、つまり「体」の部分である。だからこそ、私は必死の思いで増量に努め、ウェイトトレーニングで爆発的なパワーの養成に励んだのである。
 では、スピードや重量が同じ力士の場合はどうか。ここで「技」の善し悪しが問われる。土台となるのは、脇を締め、相手の体を下からあてがい、摺り足で出るという、いわゆる基本の動きだ。言われてみれば当たり前で単純なことなのだが、これをしっかり身につけることは容易ではない。その上で、こういう体勢になれば絶対勝てるという、自分の型を作ることだ。
 自分の対戦相手のビデオを繰り返し見て研究したり、立ち合いからの作戦を練ることは大切である。だが、それも仕切りの時間までのこと。行司の軍配が返った次の瞬間からは、あれこれ考えていたのでは間に合わない。頭で考える以前に体が自然に動くようにならなければならない。
 取組の時間は、平均五〜七秒程度。この間、力士は息をしない。陸上競技の短距離選手のように、呼吸を止めたまま一気に全身のパワーを出し切る。人間は呼吸を止めているときが一番パワーが出るのだ。
 勝負が長引き、がっぷり組み合ったまま両者の動きが止まった場合はどうか。私も現役時代に「土俵上で組み合っているとき、どこを見ているのですか」とファンに訊ねられたことがある。答えは「どこも見ていない」である。目を開けていれば、物理的に視線はどこかしらに向けられていることになる。しかし全神経は、相手の呼吸に集中している。そして相手の呼吸のリズムの一瞬の隙―相手がもっとも力を出しにくい瞬間―を狙って、技を出す。このタイミングは、なかなか言葉では表現しきれない。また、頭で考えていても遅い。「今だ」と思った瞬間、いや思うより一瞬早く、体が動いている。
 さて、では「体」と「技」が同等レベルだったら、どうであろうか。ここではじめて「心」が問われる。実際問題として、幕内の上位レベルともなれば、「体」と「技」の水準にさほど大きな開きがあるわけではない。そうした実力伯仲同士の闘いで、最終的に明と暗にわけるのは、気力、闘争心、勝利に対する飽くなき執念なのだ。
 気力が充実しているとき、相手の体は小さく見える。仕切りの時間も、驚くほど短く感じられる。仕切りのとき、相手を睨んで威圧しようと意識したり、相手が投げかける視線に動揺するようでは、心が充実しているとは言えない。本当に精神的に最高潮なときは、ただ相手の体全体を包み込むように見つめるだけだ。そして、相手の全てを、自分の内部に取り込むことができたとしたら、その時点で勝負は決まった、とも言える。
 五メートルに満たない空間で演じられる、わずか十秒足らずの闘い。だがその中には、ときとして、その力士が歩んできた人生そのものが凝縮される。
 私は現役生活を振り返り、つくづく感じる。土俵とは、不思議な空間である、と。
 

霧 島 一 博
(c)1996, Kazuhiro Kirishima
 この文章は、「写真集 霧島」(ぶんか社刊)から原文のまま引用したものです。卓越した相撲理論家としての霧島の一面が、簡潔な形の中によく出ています。

土俵を見つめる霧島
拡大写真(288k)
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