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写真で見る霧島の取組

2.栄光、そして偉大なる凋落



 

         
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将来は英語ページもつくる予定です。
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○霧島 ― ●安芸ノ島   突き落とし
平成2年(1990)名古屋場所7日目

 大関に昇進した次の場所で、霧島は寄ってくる安芸ノ島[1]を突き落とし気味の上手投げ[2]で破ります。しか しこの瞬間、霧島の足に安芸ノ島が怪力でしがみついて、いっしょに落ちて行ったため、霧島は「左大腿部筋膜一部断裂」で翌日から休場することになってしま います。これからあと、霧島の相撲人生はあちこちの怪我との闘いでした。

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●大乃国 ― ○霧島   うっちゃり
平成3年(1991)初場所14日目

 それでも霧島は立ち直ったのです。

 『北勝海関、旭富士関、私の三人の優勝争いになった。私は十三日目、二敗の旭富士関と顔が合い、上手出し投げで破った。そして十四日目は大乃国関と、物言い、取り直し後の一番で辛勝した。
 その取り直し後の一番、立ち合い私は踏み込んだが、大乃国関は百九十キロの巨体。一気に寄ってこられたので右 の下手に手が掛かったままズルズル後退した。一瞬、こりゃダメかと思ったが、土俵に足がかかったところで左上手にうまく手がかかった[1]ため、反射的に 右に体を回転させながら吊り上げる[2]と、大乃国関の体がフワッと浮いて[3]、きれいにうっちゃりが決まったのがわかった。[4]』
 ― 霧島一博『踏まれた麦は強くなる』(ザ・マサダ刊)から
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○霧島 ― ●北勝海   吊り出し
平成3年(1991)初場所千秋楽

 こうして霧島は一敗のまま、優勝争いの単独トップに立ち、二敗の北勝海との対決になりました。

 『立ち合い、北勝海関が低く当たってから、両差しになった。しかし私は両上手を引いてしのぎ、機を見て右から出し投げを打ちながら左を巻きかえ頭をつけた。そして北勝海関の体を少しずつ浮き上がらせておき、思い切り吊り上げて土俵の外に運んだ。』(同上)
 『この優勝は序ノ口から数えて九十六場所目。初優勝までの所要場所数では最長記録だった。また、三十一歳九ヶ月での初優勝というのも、現行の年六場所制になってからの最長記録だという。』(同上)

 
 
 
 
 

●安芸ノ島 ― ○霧島   はたき込み
平成3年(1991)夏場所3日目

 優勝後の春場所は負け越し、カド番で迎えた夏場所では、怪我以来苦手意識のあった安芸ノ島を、はたき込みで降しました。

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●貴花田 ― ○霧島   上手出し投げ
平成3年(1991)夏場所4日目

 さらに四日目も、新鋭貴花田を出し投げで破りました。

 その後も霧島は、必死の土俵をつとめ、数々の名勝負を残しましたが、腰、肘、足と次々に襲ってくる怪我には、ついに勝てず、一場所負け越しのあと二場所にまたがった休場の結果、四年間守りぬいた大関の座を降りることになってしまったのです。
 
 



●大翔鳳 ― ○霧島   上手ひねり
平成8年(1996)初場所8日目

 霧島は、負けが込んできても、天覧相撲では一度も負けたことがありません。おもしろいエピソードがあります。

『天覧相撲十四連勝ということで、支度部屋に戻ると、たくさんの記者の人に囲まれ た。…勝ちっぷりが良かったこともあって、私がいつになく滑らかに答えていると、小錦が風呂から上がってきて、すぐ隣にドカッと腰をおろした。…私が次に 言うことばを探していると、横から小錦が茶々を入れた。「霧島は今日だけだよ。明日からまた負けるよ!」このフテくされ気味のセリフに周りは大笑いだっ た。』
霧島一博『踏まれた麦は強くなる』より
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●霧島 ― ○久島海   寄り切り
平成8年(1996)初場所14日目

 東前頭十三枚目で、霧島は負け越してしまいます。

『私は勝ち星にこだわるあまり、立ち合い、蹴たぐりに行った[1]のだが、それがカラ振りに終わり、惨めな負け方をしてしまった。[2]』
同上
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○霧島 ― ●時津洋   下手ひねり
平成8年(1996)初場所千秋楽

『[前日の]反省もあって私は、勝とうが負けようが、自分の相撲を取ろうと心に決めていた。… まさに、崖っぷちの一番である。土俵に上がった途端、国技館に万雷の拍手が沸き起こった…立ち合い、私は低くいって時津洋の前みつを取った。そして、二本 入ったところでグっと引きつけ[1]寄るように見せてから、下手ひねりにいった。[2]これが決まって、私は首の皮一枚のところで幕内に留まることができ た。』
同上
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 このような「首の皮一枚の」苦闘を三年にわたって続けたあと、平成八年の春場所を最後に、全世界のファンに惜しまれながら、一世の名力士霧島は散ったのです。

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