世紀の誤審
霧島は平成2年(1990)春場所の千秋楽で、13勝2敗となり、同じ星だった横綱北勝海、大関小錦と、3人での巴戦で優勝を競うことになりました。霧島は小錦に勝ったのですが、北勝海の激烈なのど輪に屈し、優勝を逃してしまいました。
しかし実は、このとき霧島が14勝1敗で単独優勝するはずだったことはあまり知られていないようです。11日目の久島海戦で、行司軍配は久島海にあがっていますが、見ると明らかに久島海の方が先に落ちているのがわかります。このような誤審がなかったら、霧島は大関昇進とともに、優勝、殊勲賞、技能賞を同時にかちとっていたはずなのです。あの「世紀の巴戦」も、なんの必然性もなかったということになります。これが証拠写真(無修正)です。
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(早い動きのためにブレていますが、霧島の左足はつま先で残っています。)物言いがつき、異例の長い評議の結果、同体取り直しと判定され、このあと霧島は疲れきって気力を失い、あっさり寄り切られてしまいます。
もし、こんなことが欧米でおこったとしたら、サッカーなどの試合でよく見られるような大騒ぎ になり、大阪府立体育館の内装など、めちゃめちゃにされたに違いありません。それにくらべると日本の観客は、いい加減な判定が下され、それが後世に残る記 録となることを、なんとも思っていないのでしょうか。お客さんは取り直しが見られることで、ただ喜ぶだけでした。いやまったく、情けないことではありませ んか。霧島は、その永い相撲人生を通じて、数えきれないほどの誤審の犠牲になってきました。体重が足りないので、重い相手に 土俵際まで押されてしまうのです。こういうときは、軽量を技でおぎなうことしか道はありません。その当然の結果として、まさに行司泣かせのきわどい勝負が 多くなったわけです。あぶない技で怪我に泣かされることもしょっちゅうでした。