●小錦 ― ○霧島 下手投げ
昭和59年(1984)名古屋場所9日目
霧島は入門後十年目でようやく幕内にあがり、わずか二年のスピード出世で同時に入幕した小錦と顔が合います。こ れが通算38回にもなる名物対戦のはじめでした。小錦の激烈な突っ張りをくぐり抜けてまわしを取り、当時約2倍半の体重差をものともせず、巨体を投げ飛ば します。
『小錦は、猛然と突っ張ってきた。私はたちまちのけぞり、土俵際まで詰まった。しか し、小錦は上体が伸びきっていた。このため、小錦が伸びた手をちょっと緩めた瞬間、右がスッと入り、さらに左も浅く差して[1]、頭に描いていた通りの両 差しの態勢になることができた。頭をつけてもぐりこむ私。その私を両側からはさみつけ、上から押し潰そうとする小錦[2]。私と小錦の力くらべだった。や がて、私は、機をみて、小錦の巨体をひねり切るように思い切って右から下手投げを打った。一度目は、ちょっぴりグラッとしたが、駄目だった。しかし、二度 目。まるでスローモーションの映画でもみるように小錦の巨体が少しずつ傾いていき[3]、土俵の真ん中で背中からドシーンと地響きをたててひっくり返った [4]。』― 霧島一博『踏まれた麦は強くなる』(ザ・マサダ刊)から
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●大乃国 ― ○霧島 下手出し投げ
昭和59年(1984)名古屋場所11日目
つづいて霧島は、小錦に次ぐ重量力士だった大乃国を、タイミング絶妙の出し投げで破ります。
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●千代の富士 ― ○霧島 吊り出し
平成2年(1990)春場所6日目
霧島にとっては大横綱千代の富士は近づきがたい存在で、これまで一度も勝ったことがありませんでした。千代の富 士はこの日、1000勝の記録をうちたてるところでしたが、霧島の吊りに敗れてしまったのです。霧島が最後まで、まわしを取られるのを防いだため、横綱は 過去の対戦のときのように吊りかえすことができませんでした。関脇霧島はこの場所で、横綱大関をすべて破り、大関昇進をかちとったのです。
『立ち会い、私は左を差しに行った。狙い通り左下手に手がかかった。ほぼ同時に右上 手も引くことができた[1]。すかさず左のひじを返して横綱に右上手を取られないようにしながら[2]、私は両まわしを引きつけた。横綱に「黄金の右上 手」を取られなければ、こちらにも勝機はある。次の瞬間、横綱は力まかせに上手を取りにきた[3]。しかし、これはかえって横綱の上体を浮き立たせること になり[4]、私はその機を逃さず高々と吊り上げ[5]、土俵の外まで一気に運んだ[6]。』(同上)
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世紀の誤審
霧島は平成2年(1990)春場所の千秋楽で、13勝2敗となり、同じ星だった横綱北勝海、大関小錦と、3人での巴戦で優勝を競うことになりました。霧島は小錦に勝ったのですが、北勝海の激烈なのど輪に屈し、優勝を逃してしまいました。
しかし実は、このとき霧島が14勝1敗で単独優勝するはずだったことはあまり知られていないようです。11日目の久島海戦で、行司軍配は久島海にあがっていますが、見ると明らかに久島海の方が先に落ちているのがわかります。このような誤審がなかったら、霧島は大関昇進とともに、優勝、殊勲賞、技能賞を同時にかちとっていたはずなのです。あの「世紀の巴戦」も、なんの必然性もなかったということになります。これが証拠写真(無修正)です。
(早い動きのためにブレていますが、霧島の左足はつま先で残っています。)物言いがつき、異例の長い評議の結果、同体取り直しと判定され、このあと霧島は疲れきって気力を失い、あっさり寄り切られてしまいます。
もし、こんなことが欧米でおこったとしたら、サッカーなどの試合でよく見られるような大騒ぎ になり、大阪府立体育館の内装など、めちゃめちゃにされたに違いありません。それにくらべると日本の観客は、いい加減な判定が下され、それが後世に残る記 録となることを、なんとも思っていないのでしょうか。お客さんは取り直しが見られることで、ただ喜ぶだけでした。いやまったく、情けないことではありませ んか。霧島は、その永い相撲人生を通じて、数えきれないほどの誤審の犠牲になってきました。体重が足りないので、重い相手に 土俵際まで押されてしまうのです。こういうときは、軽量を技でおぎなうことしか道はありません。その当然の結果として、まさに行司泣かせのきわどい勝負が 多くなったわけです。あぶない技で怪我に泣かされることもしょっちゅうでした。