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相撲を原点から見直す


 このページは陸奥部屋の公式ページではなく、また、元大関霧島の見解を反映するものでもありません。独立した、まったく自由な立場から書いていますので、そのつもりで読んでいただき、メールボックスへの御批判を歓迎します。
 

         
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将来は英語ページもつくる予定です。なお、内容はそれぞれ異なります。

 
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 相撲がほかのスポーツと違う点はいろいろありますが、特におもしろいのは

というようなことでしょう。ここから、たくさんの特徴が生まれます。  ですから、相撲はただ伝統が古いから貴いのではありません。相撲の美は伝統美だという言い方は、相撲をかえって小さくしてしまうものです。伝統は心と一体になっているときに美しいのです。
 相撲に勝つことは、自分に克つことだといわれます。人間の、自分を超えた力が、土俵の上で一瞬に集中するところが、相撲の美なのです。
 そして、二人の力のバランスがどう働くのか、だれにも予想できないときこそ、相撲はかぎりなく面白いのです。
 しかも、基本ルールはだれでもわかるのですから、相撲は世界に通用する究極のエンターテイメントだといえるでしょう。


小錦を右から攻めたてる小結霧島(1986年九州場所10日目)
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北天佑をうっちゃった瞬間(1990年夏場所8日目)
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 相撲をつまらなくするのは、八百長だけではありません。勝負の成り行きが始めからわかっている相撲なら、面白いはずがないのです。
 どんな取り方をするのかわからない力士、勝つか負けるか予測できない勝負に、どの時代でも人気が集まるのはこのためです。ただ弱いものの肩を持つということだけではないのです。
 ですから、相撲のいい取組のサスペンスは、最高であるはずで、ほかの格闘技をはるかに超えるものでなければならないはずです。ところが現実には必ずしもそうなっていないのは、いったいどういうことなのでしょうか。
 稽古不足の安易な勝ち方など、もう見たくもないという、はっきりした姿勢を示さないのは、観客側にも後援者側 にもメディアにも、大きな責任があるのではないでしょうか。一人前の力士ならだれでも、自分の相撲が取れたということにしか本物の満足感は感じていないの ですから。
 

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