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霧島から陸奥へ


 霧島が現役を引退してから、親方となり、陸奥部屋を継承して今日のような大部屋に育てあげるまでの道程を、たどってみることにします。
 
 

第一部
緊迫の十五日間
(1996年3月10日〜24日)

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 平成八年(1996年)三月場所は、霧島ファンにとっては試練の場所でした。誰もがなにかあると感じていたので す。霧島の周囲の人たちは、かなり前から、もう見切り時だ、やめるべきだと言い続けていました。でも、『やっぱり辞めるのはいやだな』という思いが、最後 の最後まで霧島の心の奥底を去来していたようです。
 『相撲は自分のしごとだ』と霧島は口ぐせのように言っていました。この「しごと」という言葉は、霧島が使うと 独特の重みがあります。「生きて行くためにはどうしても必要なもの」と置き換え、「生きる」ことのすべてを含めて深く考えるべきものでしょう。今にもそれ を奪われるかという崖っぷちに、霧島は立たされていたのです。昭和五十年(1975年)の三月に初土俵を踏んでから二十一年間、当時三十六歳の人生の半分 より長い土俵生活の、総決算の時が来ていたわけです。

  
最後の土俵入り
(写真をクリックすれば、それぞれの拡大画像が見られます。)

 ファンの眼から見た霧島人気の特徴のひとつは、勝ち負けや位階とはまったく関係なく、応援の声があがっていたと いうことです。ふつうの力士の場合は、負けてばかりいて番付の文字が小さくなって行くと、とたんに人気が落ち、ひいきの人たちも次々に離れてしまうのが常 ですが、霧島は別です。あの最後の場所でも、喚声は悲痛な叫びとなって行きましたが、負ければ負けるほど声援は高まるばかりでした。負け力士に対してあれ ほどの大拍手がおこることは稀だと言えます。
 それは、国技館の場内、日本国内だけではありませんでした。霧島の負け越しがきまってから後、インターネット を通じて、世界中から無数のメッセージが霧島に寄せられて来ました。その数は日を追って多くなり、千秋楽に負けた瞬間にピークに達したのです。しかも、そ の内容は、ありきたりのファンレターではなく、霧島の相撲の本質にふれ、一世の名力士霧島をたたえる永遠の賛歌といえるものがほとんどを占めていたので す。

 このホームページ作成者の私たちは、当時これらの数多いメッセージを日本語に訳して伝え、それを今でも 光栄と考えているのですが、訳しながらも、外国の霧島ファンというものは、実に知的水準が高く、人間味にあふれた人たちだということをひしひしと感じたの です。こういう人たちのためなら、労苦は惜しまないと思ったのが、後でこのページをつくるようになったきっかけだったのです。
 霧島の『踏まれた麦は強くなる』仏訳版を出したのも、そのためでした。この本は相撲の本質を発見するための入門書として、欧米の知識人の間で大きな反響を呼びました。中でも、この本をとりわけ深読みしてくれたのは、フランスのシラク大統領でした。このことは、『霧島の出した本』のページにくわしく述べてあります。以上は、楽屋話になってしまってすみません。

 最後の場所での霧島に話を戻しましょう。ファンにとっては心臓が止まるようなサスペンスの連続だったあ の十五日間、大喚声につつまれた霧島は、いったいどんなことを感じていたのでしょうか。負けることにもまして辛かったのは、自分の思うような相撲を取るこ とが、まったく出来なくなってしまったということではなかったのでしょうか。あの切れ味無類だった相撲に、迷いが出て来たのです。この場所では、特に体調 が悪いということもなかったのに、立ち会いの瞬間から一気に持って行かれてしまうのです。相撲に悔いを残して辞めるのはどうにもいやだ、十両に落ちてでも 続ければ、なんとかなるのではないかという思いは、霧島の頭の中をいつまでも離れなかったようです。土俵への執念がそうさせたのでしょう。この妄念がふっ きれたのは、千秋楽で十両琴龍に敗れた後のことでした。誰に何と言われようとも、最後まであきらめるとは言わないで、凄絶な相撲を取り続けたのは、メディ アが報道していたようなこととは全く無関係な次元で、霧島の本心がどこかで作用していたのです。泥沼の中に全身をとられてあがいていた霧島の姿が、あくま でも美しかったのも、この執念の頑張りのためだったのです。


最後の土俵を去っていく霧島

(つづく)


 このページの付録として、下記の「霧島最後の取組」があります。

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