2001年の陸奥部屋

 

(2001年10月19日更新)


  両国国技館にもっとも近い相撲部屋として新しく誕生し、1998年2月15日に土俵開きをした陸奥部屋は、わずかの間に急成長を遂げ、2000年9月21日には立田川部屋の力士たちも移籍して来て、今では角界有数の大部屋となりました。

 このページは、メンバーたちのことがよくわかるように構成してあります。各力士のデータのあとに、それぞれの素顔を描いていますが、この部分は、もちろん起草者の個人的見解です。
         
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(力士は入門順、同期の場合は五十音順)


 陸奥 一博(みちのく かずひろ)

師匠
元大関 霧島

本名 吉永一美  1959年4月3日生
鹿児島県姶良郡牧園町出身  1975年春場所入門
最高位 東大関  
優勝1回 殊勲賞3回 敢闘賞1回 技能賞4回 金星2
通算754勝696敗40休
通算出場回数 1450 (なお、いろいろの統計で、1447というのはまちがいです。)
勝率 52.0% (大関としての勝率は64.7%)
1996年3月24日引退 年寄錣山(しころやま)襲名
1997年5月 年寄勝ノ浦襲名
1997年12月 年寄陸奥襲名
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 敷島 勝盛(しきしま かつもり)

準年寄
本名 吉種弘道
1970年12月15日生   千葉県船橋市出身
1989年初場所初土俵
1994年九州場所入幕 幕内在位 28場所
2001年5月13日引退、翌日から準年寄となる

最高位 前頭筆頭   通算416勝418敗37休
幕内戦歴 175勝228敗
通算出場回数 835 勝率 49.9%
金星2 (1998年春場所と夏場所、ともに貴乃花から)
得意技 左四つ、左差し、右上手、寄り切り、上手投げ

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陸奥部屋での敷島
敷島の黄金時代  
 

 稽古場はもちろん、日常生活などでも見せるちょっとした体の動きかたを見ただけでも、長いあいだ上位でやって来た人だということが、すぐわかりますし、余裕十分の垢抜けた雰囲気をこの人はかもし出し、自分の生き方と人格とが完全にマッチしている人を見るときの安心感のようなものを感じさせるのです。ふだんはめがねをかけているのがちょっと残念ですが、威厳とエレガンスを兼ね備えているのがよくわかります。また、美声でも知られていて、相撲甚句の名手です。
 2001年初場所では、持病の心臓疾患が出て、二日目からやむなく休場のはめになってしまいました。これによって、敷島は永い間つとめて来た関取の座を失うことになりました。まさに痛恨の出来事だといえます。
 医者は、相撲をやめろとは言っていなかったのだそうですが、減量は絶対に必要だということで厳しいダイエットを強制され、四ヶ月の間になんと50キロ近くも痩せてしまいました。140キロ台まで落ちたことで、健康状態そのものはかなりよくなったようでしたが、これによる精神面への影響はひどいものでした。こんな体では自分本来の押し相撲はとても取れなくなってしまったし、このように情けない姿をお客さまの眼にさらすのは、とても耐えられないとくりかえして言い、すっかり落ち込んでしまったのです。見る眼にもなんとも気の毒なありさまでした。
 その後も、病気は快方に向かってはいたのですが、とても相撲の取れる状態ではなく、春場所を休場したあと、ついに夏場所初日に引退届を提出しました。引退は、翌5月14日の持ち回り理事会で承認され、準年寄敷島となりました。
 引退会見では無理をして陽気に振舞い、ダイエットの本が出せるなどとジョークを飛ばしていましたが、どんなに辛かったかは察するにあまりあります。
 現在は部屋付き親方として、きわめて熱心に稽古に立ち会い、後進の指導にあたっていますが、静かな、落ち着いた様子の中で時々見せる暗い表情を見ると、なんとも言えない気分になってしまいます。

 敷島の断髪式は、9月30日、国技館で開催され、四百人ほどの人たちが鋏を入れました。
 
 
 

 福ノ里 邦男(ふくのさと くにお)

若者頭(わかいものがしら)
本名 福田邦男
1961年6月4日生  岩手県出身
最高位 十両13  通算333勝294敗7休
 もともとは立田川部屋の若者頭だった人ですが、立田川部屋の正式併合に先立って、2000年の始めごろから陸奥部屋の稽古に立ち会い、陸奥親方とならんで稽古場に座り、熱心に指導をしています。稽古の間は注意深くみんなの様子を観察し、こまめにノートをとっていたのが印象的です。静かな人で、弟子たちに注意をする時も声を荒らげたりすることはありません。なにごとも実に良心的になしとげるといった感じが眼に見え、この人がそこにいるだけで安心感を与えるのです。
 相撲協会の若者頭ですから、部屋の仕事以外でも国技館でのいろいろな行事も手伝っている姿が、よくテレビにも写っています。
 
 
 
 
 

 星誕期 偉真智(ほしたんご いまち)

西幕下十一枚目
本名 星 誕期(ほし たんご) (2000年10月25日付で日本に帰化)
前名 イマチ・マルセロ・サロモン (Imach Marcello Salomon)
1965年9月5日生
アルゼンチン、ブエノスアイレス出身
1987年夏場所入門
184cm 164kg
2000年秋場所   東幕下八枚目  6勝1敗
2000年九州場所  西幕下筆頭   3勝4敗
2001年初場所   東幕下七枚目  3勝4敗
2001年春場所   西幕下十三枚目 5勝2敗
2001年夏場所   東幕下七枚目  3勝4敗
2001年名古屋場所 東幕下十四枚目 4勝3敗
2001年秋場所   西幕下十一枚目 2勝5敗
最高位 十両3  通算383勝337敗11休
通算出場回数 720  勝率 53.2%
得意技 突き押し
 旧陸奥部屋時代からの生え抜き、最先輩力士としての責任感は十分もっています。膝と肘の故障がまだよくなっていないようですが、「でも何でもない、ダイジョウブヨ」などと、そんなことは気にしていられないという調子でくりかえしています。とにかく相撲では、「できるかぎりのことをやるしかない、運不運などない、実力がすべてで、成績や番付順はそれで決まるもの」と割り切ったことを言います。ベテランのことですから、負けが重なっても番付が落ちても、「それはよくあること」で、あまり気にしていないように見えます。陽気な性格ですが、実際は神経質で、ピリピリしていて、衝動的で怒りっぽいところがあります。このあたりは、ラテンアメリカそのもののように見えるのですが、これは本人には言えません。「外人は顔だけ、心は日本人」だと確信しているらしく、ガイジンだといわれると本気で腹をたてるのです。歌はさすがに上手で、カラオケでは大将格だそうです。
 2000年は、名古屋場所での全敗の結果、十両から幕下に転落し、秋場所では盛りかえして六勝一敗の好成績をあげ、十両への復帰も望まれていたのですが、番付運がよくなくて幕下筆頭にとどまりました。九州場所で勝ち越せば、十両への道は開けていたのに、三勝四敗の負け越しでした。2001年初場所では幕下東七枚目で取ることになり、ふたたび三勝四敗で負け越しとなりました。その結果、春場所番付では六枚半落ちていましたが、めでたく五勝二敗で勝ち越し、夏番付では初場所の位階に戻りました。一敗の差で六枚半落ち、五勝二敗でも同じく六枚半しか上がらなかったのは不当といえるでしょう。その夏場所では、一敗差での負け越しとなりましたが、名古屋場所では勝ち越しました。
 現在では、脚のサポーターはまだとれていませんが、体調はいいようで、ひさしぶりで元気いっぱいの稽古をしていました。それにもかかわらず、秋場所の成績は不調で、二勝五敗にとどまりました。残念です。
 
 
 

 豊桜 嘉人(とよざくら よしひと)

東幕下四枚目
本名  向 俊明
1974年3月12日生  広島市安佐北区出身
1989年春場所初土俵
182cm    135kg
2000年秋場所   西幕下筆頭   5勝2敗
2000年九州場所  西十両九枚目  8勝7敗
2001年初場所   西十両七枚目  5勝10敗
2001年春場所   西十両十一枚目 1勝3敗11休(3敗は不戦敗1をふくむ)
2001年夏場所   西幕下九枚目  公傷休場
2001年名古屋場所 西幕下九枚目  5勝2敗
2001年秋場所   東幕下四枚目  4勝3敗
最高位 十両7    通算297勝257敗27休
通算出場回数 554  勝率 53.6%
得意技 右四つ、突っ張り、右差し、左上手、寄り切り
 敷島に次いで長い相撲人生を送ってきた人で、それは、怪我と不運との闘いだったのです。いかにも苦労人らしい、人間味と思いやりのある人格の持ち主です。心を開いての率直な人間関係をもてる人で、近寄りやすく、威張った顔はまったく見せません。はるか下の弟子たちへも寛容さと同情にあふれたまなざしを送っているのが印象的で、好感を呼びます。
 三歳上の兄、北桜と同じく、昔は柔道から相撲界に入り、ウェイトトレーニングをやって筋肉をつけて来ました。
 最近の本場所では、序盤ですばらしい成績(初場所でも五戦五勝)をあげて大いに期待させておきながら、そのあと信じられないような負けかたをするという癖がついてしまっているようです。これは心理的なものなのでしょうか。まったく理解に苦しむ現象です。
 春場所では、三日目の隆の鶴戦で負傷してしまいました。右大腿筋部分断裂、八週間要治療で、公傷と認定されました。この結果、四日目の光法戦は不戦敗となり、その後は休場となりました。豊桜の休場は、1998年九州場所以来のことで、まことに残念です。
 しかし、名古屋場所ではみごとな復活ぶりを見せて本来の実力を発揮し、五勝二敗の成績をあげました。その結果、幕下四枚目にあがってはいますが、ぜひまた関取の座を取りかえしてもらいたいものです。
 秋場所では、四勝三敗で勝ち越しました。しかし今の幕下上位には十両候補がひしめいているため、これで十両に復帰できるかどうかは疑問です。
 
 
 

 十文字 友和(じゅうもんじ ともかず)

東十両二枚目
元 階ケ嶽松太郎
本名 十文字友和
1976年6月9日生   青森県階上町出身
1992年九州場所初土俵
186cm    157kg
2000年秋場所   東十両二枚目  9勝6敗
2000年九州場所  西前頭十二枚目 5勝10敗
2001年初場所   東十両三枚目  8勝7敗
2001年春場所   西前頭十三枚目 9勝6敗
2001年夏場所   東前頭七枚目  7勝8敗
2001年名古屋場所 東前頭九枚目  4勝11敗(千秋楽の不戦敗をふくむ)
2001年秋場所   東十両二枚目  公傷休場
最高位 前頭7    通算253勝207敗15休
通算出場回数 460  勝率 55.0%
得意技 右四つ寄り、左上手、寄り切り
 いうまでもなく、現在の陸奥部屋では最上位の力士です。口数が少なく、よけいなことは言いませんが、穏やかな表情で、落ち着いていてしかも強さをそなえている人です。
 初場所では、十四日目に右足の指を二本傷めてしまい、千秋楽に休めば負け越しとなる瀬戸際に立たされました。それでも怪我を押して出場したばかりでなく、対戦相手を送り出して勝利を手にし、みごと勝ち越しをきめました。これにより、春場所ではめでたく幕内復帰となりました。しかも、帰り入幕での活躍はめざましく、九勝六敗の好成績での勝ち越しとなりました。
 自己最高位に達していた夏場所では、惜しくも一敗差で七勝八敗の負け越しでした。
 名古屋場所では、調子が悪かった上、十四日目の海鵬戦で腰に重傷を負い、自力では起き上がることができず、車椅子で退場、緊急入院という大事故に遇ってしまいました。
 現在では、怪我はややよくなってふつうに歩くことができるようになりました。軽い稽古を少しずつ始めていますが、まだ本場所に出場できる状態ではなく、秋場所は休場となります。番付も十両二枚目に落ちてしまい、ふたたび幕内の地位を失うことになりました。
 
 
 
 

 琉鵬 桂助(りゅうほう けいすけ)

西幕下二十七枚目
本名 浦崎桂助
1977年6月18日生  沖縄県中城村出身
1993年春場所初土俵
183cm    139.5kg
2000年秋場所   東幕下四十枚目  5勝2敗
2000年九州場所  東幕下二十一枚目 4勝3敗
2001年初場所   西幕下十六枚目  3勝4敗
2001年春場所   西幕下二十六枚目 3勝4敗
2001年夏場所   東幕下三十四枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 西幕下四十三枚目 5勝2敗
2001年秋場所   西幕下二十七枚目 4勝3敗
最高位 幕下16    通算185勝160敗12休
通算出場回数 345   勝率 53.6%
得意技 左四つ、寄り
 見るからに真面目で、考え深そうな人です。よく眉をちょっとしかめているのが印象的です。自分で話すよりも相手の話をよく聴いているようで、常識にあふれた人格なのが眼に見えます。昔は沖縄の海で素潜りが得意だったという、根っからの琉球人です。
 初場所では痛恨の三勝四敗で、春場所番付では十枚も下がってしまいましたが、春場所、夏場所でもつづけて三勝四敗です。無念なことです。
 しかし、名古屋場所では五勝二敗と、本来の実力を発揮し、その結果、西二十七枚目にあがりました。
 秋場所でも、四勝三敗でめでたく勝ち越しました。

 なお、雑誌大相撲の2001年10月号に、琉鵬についての紹介記事(幕下訪問欄の全ページ記事、筆者は向井太)が出ています。
 
 

 霧の海 剛(きりのうみ つよし)
(元 秋の里 貴士(あきのさと たかし) 2001年秋場所から改め)

西三段目四十一枚目
本名 秋山貴志
1979年7月29日生  青森県八戸市出身
1995年春場所初土俵
181.5cm    160kg
2000年秋場所   西三段目二十九枚目 5勝2敗
2000年九州場所  西三段目筆頭    3勝4敗
2001年初場所   西三段目十五枚目  2勝2敗3休
2001年春場所   東三段目三十六枚目 2勝3敗2休
2001年夏場所   西三段目五十八枚目 公傷休場
2001年名古屋場所 西三段目五十八枚目 4勝3敗
2001年秋場所   西三段目四十一枚目 4勝3敗
最高位 幕下43    通算138勝95敗47休
通算出場回数 233   勝率 59.2%
得意技 突き押し
 初土俵からの総合成績はじつに立派で、現在までの勝率では十文字を超えているのは大したものです。小学校時代に相撲をやり、賞をとっているそうです。
 右膝を傷めていたのが、初場所中にまた悪くなり、四日間取った後、休場のやむなきにいたりました。このために、春場所番付では二十枚以上も下がっています。しかも、怪我はまだよくなっていないらしく、春場所で最後まで取り続けることができず二勝三敗のあと休場、夏場所も全休となってしまいました。まことに残念なことでした。
 しかし、名古屋場所へは怪我を押して出場し、四勝三敗で勝ち越して底力を見せてくれました。
 秋場所では、霧の海と改名することになり、ふたたび四勝三敗で勝ち越しました。早く全快して本来の実力が発揮できるようになることを、願ってやみません。
 
 
 

 山竜 将太朗(やまりゅう しょうたろう)

東三段目三十五枚目
元 山竜将太 (2001年7月から将太朗とする)
本名 山本竜太
1981年3月15日生  東京都江戸川区出身
1996年春場所初土俵
179cm    135.5kg
2000年秋場所   西序二段六枚目   4勝3敗
2000年九州場所  東三段目八十八枚目 4勝3敗
2001年初場所   西三段目六十九枚目 2勝5敗
2001年春場所   西三段目九十六枚目 1勝6敗
2001年夏場所   西序二段二十九枚目 5勝2敗
2001年名古屋場所 東三段目九十五枚目 6勝1敗
2001年秋場所   東三段目三十五枚目 3勝4敗
最高位 三段目35  通算110勝121敗
通算出場回数 231  勝率 47.6%
 もの柔らかで、あまり目立ちたがらない人です。口数が少なく、静かで落ち着いていて、進んで他人の役に立ちます。英語を少ししゃべるのは部屋では珍しいことです。
 この人も、左の膝に怪我をしていて、初場所での負け越しはそのためと考えられますが、それにしても六十九枚目から九十六枚目への転落は、まことに厳しい状況でした。その上、怪我が災いして、春場所は一勝六敗と、さんざんの結果で、夏場所番付では序二段へ転落していました。
 夏場所では本来の実力を発揮して期待にこたえ、みごとに五勝二敗の好成績をあげ、三段目に復帰しました。また、つづく名古屋場所でも、六勝一敗と大勝ちし、秋場所番付では自己最高位を大きく更新することになりました。秋場所では三勝四敗で負け越しましたが、番付運が悪くならないことを祈ります。
 
 
 

 霧昇 有康(きりのぼり ともやす)

序ノ口西四十枚目
元 力涛
本名 前田有康   1975年4月27日生
静岡県裾野市出身  1997年名古屋場所入門
178cm 109.5kg
2000年秋場所   西序二段百七枚目  1勝6敗
2000年九州場所  東序ノ口九枚目   4勝3敗
2001年初場所   西序二段百六枚目  2勝5敗
2001年春場所   西序ノ口四枚目   4勝3敗
2001年夏場所   東序二段九十五枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 西序二段百八枚目  休場
2001年秋場所   西序ノ口四十枚目  休場
最高位 序二段95  通算71勝90敗7休
通算出場回数 161  勝率 44.1%
 陸奥部屋の若手としてはいちばんの古参者ですから(旧陸奥部屋時代からの弟子で、いま二十六才)、土俵経験がゆたかなことはたしかで、体つきや態度までいかにも相撲取りらしく、初心者のようなところはまったくありません。番付上では後進たちに抜かれていても、先輩として一目置かれているようです。もともと冷静で、控えめな人なのですが、本来は負けん気も十分なのですから、現在のままであきらめるはずはないでしょう。昨年はさんざんの不運でした。怪我のため不調で、ふたたび序ノ口へ後戻りしていましたが、今年の春場所では勝ち越して序二段への復帰とともに自己最高位への到達がかないました。しかし、怪我はまだ心配で、たいへんなハンディキャップを背負っているのです。
 リハビリ中だったのを押して、堂々と初場所に臨んだのは立派でしたが、この状態では、いい成績を期待するのは無理というもので、やはり二勝五敗に終わり、新番付ではまたしても序ノ口に転落してしまいました。しかし春場所ではめでたく勝ち越しとなりました。怪我にもかかわらず無休で通し、これだけの成績をあげたのは、見上げたものだといえます。
 夏場所では、三勝四敗と、惜しい負け越しでした。名古屋場所でも怪我はよくならず、はじめての休場となってしまいました。その結果、秋場所番付では、ついに陸奥部屋力士の最下位にまで落ちてしまいました。まことに残念なことと言わなければなりません。見るのも恐ろしいほど、右肩から耳までひどく腫れ上がっているのです。一日も早く運が開け、日々の努力が報いられることを祈ります。
 
 
 

 桜島 弘聖(さくらじま こうせい)

序ノ口東三十八枚目
本名 下迫弘聖  1982年6月1日生
鹿児島市出身   1998年春場所入門
179cm 106kg
2000年秋場所   西序ノ口四十枚目  4勝3敗
2000年九州場所  東序ノ口三枚目   5勝2敗
2001年初場所   西序二段八十八枚目 1勝3敗3休
2001年春場所   東序二段百十八枚目 3勝4敗
2001年夏場所   西序二段百十九枚目 4勝3敗
2001年名古屋場所 東序二段九十枚目  休場
2001年秋場所   東序ノ口三十八枚目 休場
最高位 序二段88  通算48勝66敗33休
通算出場回数 114  勝率 42.1%
 第一期生の中でいちばん陽気な人でしたが、このごろはすっかり変わってきました。手に怪我をして、稽古もあまりできない状態がつづいたあと、今のままではいられないという意識が目覚めてきたようです。しかし、根はやさしい性格なのです。最近では、稽古態度も成長して来ました。懸命にやりながらも、しかも余裕を残しているありさまは、明らかに大人としての自信と常識ができて来たことを示すものです。
 前から番付運が悪く、まだ序ノ口三枚目にとどまっていた九州場所ではめでたく五勝二敗の好成績をあげましたので、初場所番付では序二段に復帰して自己最高位に達していたのですが、二年も前からひきずっている手の怪我に加えて、右膝をやられてしまいました。この状態では、いい相撲を取れといってもとても無理です。初場所では三番取ったうちで一勝だけのまま、痛恨の休場となり、三十枚下がってしまいました。春場所では一敗の差で負け越しですが、今の状況ではこれでも精一杯といえるでしょう。夏場所の勝ち越しは、まことに貴重だといえます。しかし名古屋場所は休場となり、番付も序ノ口下位に落ちてしまいました。秋場所も全休です。精神面でも、ひどく落ち込んでいるようです。回復と健闘を祈ってやみません。
 
 
 

 楢橋 親一 (ならはし しんいち)

序二段東五十二枚目
1981年4月24日生  福岡市東区出身
1998年春場所入門
175cm 88kg
2000年秋場所   西序二段七十八枚目 3勝4敗
2000年九州場所  東序二段九十二枚目 5勝2敗
2001年初場所   東序二段五十一枚目 3勝4敗
2001年春場所   東序二段六十五枚目 3勝4敗
2001年夏場所   西序二段八十枚目  3勝4敗
2001年名古屋場所 東序二段九十四枚目 5勝2敗
2001年秋場所   東序二段五十二枚目 4勝3敗
最高位 序二段51  通算73勝74敗
通算出場回数 147  勝率 49.7%
 デビュー当時はやせていたのですが、最近は見違えるほど筋肉がついて来ました。はじめのうちは稽古熱心とはいいにくかったのですが、その後は真剣に努力をかさねていることが目に見え、稽古をいちばん熱心にやっている組に入ります。怪我もおそれないで相手に立ち向かって行き、危険なひっくり返り方で落ちたり、壁にぶつかったりして傷を負っているのは、見ていてもなんともこわい感じです。今も右手の指がひどく腫れていて、痛ましいほどです。安心して見られるようになるのには、まだまだ体重がほしいところでしょう。始めのうち見られた、ちょっととりつきにくい、コンプレックスのかたまりのような性格からは今では完全に脱し、自分の能力の限界に挑戦してこれを克服し、ほんものの自信をつけるというところまで、すでに行っている感じがします。1998年に新生陸奥部屋が発足してから最初に入った第一期生五人の中では、もっとも有望であることはたしかです。
 2000年の九州場所では五勝二敗をあげてみごとに期待にこたえ、自己最高位にあがっていたのに、2001年初場所の一敗差の負け越しで十四枚も下がったのは、まことに惜しいことです。春場所、夏場所でも、またもや三勝四敗がつづいていましたが、名古屋場所では五勝二敗で、みごとに勝ち越し、新番付では失地回復がかないました。つづいて秋場所でも四勝三敗で勝ち越しました。
 
 
 

 霧錦 隆雄(きりにしき たかお)

番付外
本名 佐々木隆雄  1982年6月15日生
茨城県藤代町出身  1998年九州場所入門
184.5cm 124kg
2000年秋場所   西序二段百二枚目  5勝2敗
2000年九州場所  西序二段五十五枚目 3勝4敗
2001年初場所   西序二段八十三枚目 3勝4敗
2001年春場所   東序二段九十九枚目 休場
2001年夏場所   西序ノ口十三枚目  休場
2001年名古屋場所 番付外       休場
2001年秋場所   番付外       休場
最高位 序二段55  通算47勝51敗28休
通算出場回数 98  勝率 48.0%
 まじめで礼儀正しい人です。一生懸命に稽古にはげみ、身長、体重も十分、素質にもめぐまれていますが、今のところは怪我のため、本来の実力が出しつくせないようです。日常生活ではめがねをかけ、控えめな性格で、好きで選んだ相撲の道をひとすじに進んで行くにはどうすればいいのかということも完全に心得ているようです。
 昨年は名古屋場所での負け越しのあと、秋場所では五勝二敗の好成績で、九州場所の番付では自己最高位に達していたのですが、惜しくも三勝四敗にとどまりました。その結果、なんと二十八枚も番付を下げられてしまったのは、明らかに不当なことでした。
 現在は右手のひどい怪我のため、大変なハンディーを背負っています。しかし、長期的には、怪我さえ治れば、心配なしに前途に期待をかけていい好青年だといえます。早くよくなるように願うばかりですが、まだ回復せず、春場所は休場となり、序ノ口に落ちてしまいました。夏場所でも休場がつづき、その結果、ついに番付外に落ちましたが、休場は名古屋場所、秋場所でもつづいています。連続四場所の休場は、じつに気の毒です。
 
 
 

 貴島 雅博(きじま まさひろ)

東序ノ口二十六枚目
1982年3月23日生  埼玉県鷲宮町出身
1998年九州場所入門
174cm 64kg
2000年秋場所   西序二段百三十一枚目 1勝6敗
2000年九州場所  東序ノ口二十枚目   2勝5敗
2001年初場所   東序ノ口二十三枚目  3勝4敗
2001年春場所   西序ノ口十九枚目   1勝6敗
2001年夏場所   西序ノ口七枚目    3勝4敗
2001年名古屋場所 西序ノ口十六枚目   2勝5敗
2001年秋場所   東序ノ口二十六枚目  4勝4敗
最高位 序二段131  通算36勝84敗
通算出場回数 120  勝率 30.0%
 やせっぽちの身体で(なんと62キロの軽量だったのがこのごろやっと67キロまで行っているらしいのですが)、デブばかりが横行している今の相撲の世界では、まことに異質な感じです。いうまでもなく、相撲界の最軽量力士はこの人です。見るからにデリケートな性格、優しい身ごなしで、バレエとか、フィギュアスケートとか、体操などの選手にしてもおかしくないと思わせるほどです。それでも相撲をやるというのは、本人が自分に課した試練のようなもので、なんと言われようとやりとげて見せるという心がまえがうかがえるのは、見上げたものです。人に対しての思いやりもあり、文字通り心も強くやさしいといえます。
 2000年名古屋場所ではすばらしい技を見せて、はじめて勝ち越し、自己最高位に達していたのですが、重い相手に出されてしまうことが多く、九州場所からは序ノ口へ転落の憂き目に会い、軽量を技とスピードで補うことがどんなにむずかしいかをひしひしと感じさせました。だいぶ落ち込んでいる様子が見え、見ている方もつらいようなありさまですが、ここが正念場なのですから、気力をふりしぼってなんとか踏みこたえ、危機を乗り越えるべきです。
 この頃では、やせた体にも筋肉がついて来たのですが、土俵上で対戦相手と向かいあった時、あまりにも体つきが違うのはなんともしがたく、これで勝つのは奇蹟としか思えません。その奇蹟が、2001年初場所の千秋楽に起こったのです。よくやったと心から言いたいところです。しかしながら、春場所では一勝六敗となってしまいました。まさに悲劇です。その意味で、夏場所の三勝四敗は、努力の成果だといえます。名古屋場所では二勝五敗でした。
 秋場所では、はじめて調子がよく、三連勝のあと四勝三敗で勝ち越していたのですが、十四日目になってから、もう一番取らされることになりました。しかも相手は、この場所で序ノ口優勝をすることになる、モンゴル出身の大翔地で、苛烈な取り口で突き出されてしまったのです。七場所ぶりのうれしい勝ち越しに、花を添えることがかなわなかったのは、まことに痛恨のできごとでした。 
 この人の永遠の課題は、なんとしても体重をつけることですが、どうしてもたくさんは食べられないということで、これがまことに心配です。下位力士にはつきもののつらい雑用をやらされながら、それでも頑張って相撲に懸命にはげんでいる姿には、文字どおり頭が下がります。
 
 
 

 霧の若 太郎(きりのわか たろう)
(岡本 将之 改め

西三段目二十枚目
1983年9月18日生  熊本県長陽村出身
1999年春場所入門
176cm 106.5kg
2000年秋場所   東序二段三十三枚目 3勝4敗
2000年九州場所  東序二段五十二枚目 5勝2敗
2001年初場所   東序二段十二枚目  5勝2敗
2001年春場所   西三段目七十七枚目 6勝1敗
2001年夏場所   東三段目二十一枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 東三段目三十五枚目 4勝3敗
2001年秋場所   西三段目二十枚目  4勝3敗
最高位 三段目20  通算61勝44敗
通算出場回数 105  勝率 58.1%
 心身ともに強固、活発で、筋肉もよくついています。沈着で、一見気楽な性分のように見えますが、プライドが高く、どんなつらいことでもきちんとやりとげます。昇進も早く、1999年の夏場所では、序ノ口優勝の候補になっていたのですが、相手の韓国出身力士が約二倍も重く、惜しくも敗れて優勝をのがしてしまいました。通算勝率を見ればわかるように、同期生のうちで、もっとも優秀な部に入る実力者であることはまちがいないところでしょう。2000年名古屋場所でも勝ち越し、部屋では当時三段目の和歌嵐(その後引退)、藤本(現在は霧の藤)に次ぐ番付順にまで進んでいました。秋場所では残念なことに、一番の差で負け越しでしたが、九州場所は五勝二敗の好成績で、自己最高位に達していました。
 2001年初場所では、期待にたがわず、ふたたび五勝二敗という見事な成績をあげ、待望の三段目への昇進がついに実現しました。この地位を守り抜くのには、かなりの苦労が伴うことが心配でしたが、春場所でもなんと六勝一敗と大勝ちして、実力と忍耐でかちとった三段目であることを、立派に見せつけてくれました。
 名古屋場所でも、古株力士のひしめいている現在の地位で勝ち越したことは、評価すべきです。かくして、秋場所では、自己最高位を更新し、陸奥部屋若手力士のトップに立つことになり、しかもまた勝ち越しました。この勢いがつづいて行けば、将来も陸奥部屋の希望の星のひとつとなることは、ほぼ確実だといっていいでしょう。
 
 
 

 白澤 隆志(しらさわ たかし)

西序二段三十九枚目
1982年12月6日生  静岡県豊岡村出身
1999年春場所入門
180cm 113kg
2000年秋場所   東序ノ口十枚目   4勝3敗
2000年九州場所  東序二段百十三枚目 4勝3敗
2001年初場所   西序二段八十六枚目 5勝2敗
2001年春場所   東序二段四十六枚目 2勝5敗
2001年夏場所   西序二段六十八枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 西序二段八十枚目  5勝2敗
2001年秋場所   西序二段三十九枚目 4勝3敗
最高位 序二段39  通算53勝48敗4休
通算出場回数 101  勝率 52.5%
 行儀正しく開放的な性格で、頭もよく、常識をもって行動する自然体のタイプで、相撲界でも成功すると考えられますが、勝負師としてはおとなしすぎるぐらいです。落ち着いていますが、均衡のとれた性格のためか、闘争心はあまりないようです。無理をすることをおそれないで自分の限界に挑戦するという習性をもっていないのでしょう。それでも成功の道は十分残されているということを、この人は証明しているのです。2000年名古屋場所では、肘の故障のため入院、手術という事態になり、成績があがらなかったのは残念でしたが、手術の後の回復はめざましく、傷跡は今でもいたましく残っていますが、秋場所では勝ち越して、めでたく序二段への復帰を果たし、九州場所もつづいて勝ち越してまたも自己最高位になりました。この上昇気流にうまく乗って行くため、怪我にはくれぐれも気をつけて、自信を持って実力で勝負していくことを期待します。
 2001年初場所でも、この期待をみごとに裏書きする五勝二敗の好成績をあげ、つづけて自己最高位を更新したのは、まことに喜ばしいことでした。ちょっと見ただけではあまり目立たないように見えるこの人は、過去の実績を見ても明らかな通り、着実に出世街道を一歩ずつ進んでいるのです。春場所では残念なことに、二勝五敗と負け越し、夏場所では、一敗差の惜しい負け越しでした。しかし、名古屋場所は五勝二敗の好成績をあげ、その結果、秋場所ではめでたく自己最高位を更新し、さらに勝ち越しました。将来への見通しは明るいといえます。
 
 
 

 末永 司(すえなが つかさ)

東序二段百六枚目
1983年5月26日生  鹿児島県隼人町出身
1999年春場所入門
175cm 95kg
2000年秋場所   東序二段百二十四枚目 2勝5敗
2000年九州場所  西序ノ口十二枚目   4勝3敗
2001年初場所   西序二段百九枚目   2勝5敗
2001年春場所   西序ノ口五枚目    3勝4敗
2001年夏場所   西序二段百二十二枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 西序ノ口七枚目    4勝1敗2休
2001年秋場所   東序二段百六枚目   3勝4敗
最高位 序二段106  通算43勝60敗2休
通算出場回数 103  勝率 41.7%
 目立ちたがらないので、稽古場でも人の陰にかくれて裏役にまわってしまう傾向があり、あまり注意をひきませんが、よく見ると、あわてずさわがず、自分なりの稽古をちゃんとやっているようです。2000年名古屋場所では、序二段から序ノ口に転落したあと、勝ち越して序二段に復帰し、秋場所では自己最高位に達していたのに、成績がよくなくて、残念ながらまたまた序ノ口に落ちてしまっていました。それでも九州場所ではめでたく勝ち越して、自己最高位を更新することになりました。今度こそは序二段に完全に定着できるよう、期待していたのですが、残念なことに、2001年初場所で二勝五敗となり、またしても序ノ口へ逆戻りしてしまいました。膝の状態がよくないようです。春場所と夏場所では三勝四敗、健闘したといっていいでしょう。名古屋場所では、二回の休場で心配させましたが、その後四勝一敗の好成績をあげました。驚くべきことです。この勢いがつづき、今までの沈滞から完全に抜け出せるよう、祈ってやみません。秋場所番付では序二段に復帰し、自己最高位に達していますが、結果は惜しくも三勝四敗でした。これで番付がひどく落ちてしまわないよう、願うばかりです。
 
 
 

 土佐 幸司(とさ こうじ)

東三段目三十八枚目
1980年7月18日生  熊本県菊陽町出身
1999年春場所入門
174.5cm 150.5kg
2000年秋場所   東序二段四十七枚目 2勝5敗
2000年九州場所  西序二段七十三枚目 6勝1敗
2001年初場所   東序二段四枚目   3勝4敗
2001年春場所   西序二段五十九枚目 3勝4敗
2001年夏場所   西序二段三十六枚目 5勝2敗
2001年名古屋場所 東三段目九十九枚目 6勝1敗
2001年秋場所   東三段目三十八枚目 1勝6敗
最高位 三段目38  通算57勝48敗
通算出場回数 105  勝率 54.3%
 若手弟子の中では最重量で、陸奥部屋にはめずらしく、いかにも押し相撲向きの身体をしていますが、動きに正確さがあり、四つ相撲も取れます。通算成績もよく、期待されます。性格としては気まぐれなところが少なく、控えめで、目立ちたがる傾向はまったく見られません。はっきりした、率直な性格で、落ち着いていて、感じのいい若者といえます。
 以前は相撲の成績にあまりバラツキがないことが特徴でしたが、2000年名古屋場所、秋場所ではつづけて負け越しました。しかし、総体的には、もっとも有望な力士の一人であることはまちがいありません。期待にたがわず、九州場所では六勝一敗と大勝ちし、自己最高位の序二段四枚目にまで進みました。この調子で行けば、前途は明るいと言えるでしょう。はたして2001年夏場所では五勝二敗の好成績をあげ、三段目への昇進がかないました。そればかりでなく、つづく名古屋場所でも六勝一敗と大勝ちしています。三段目の厚い壁を見事に破ったわけで、この成果は高く評価されるべきです。秋場所番付では、自己最高位を大きく更新して部屋の上位力士の列に入ることになりましたが、結果は痛恨の一勝六敗でした。
 
 
 

 栃谷 漢将(とちたに くにゆき)

東序ノ口十九枚目
1983年9月18日生  大阪市城東区出身
1999年春場所入門
182cm 112.5kg
2000年秋場所   東序ノ口二十三枚目  2勝5敗
2000年九州場所  西序ノ口三十枚目   3勝4敗
2001年初場所   西序ノ口二十三枚目  3勝4敗
2001年春場所   東序ノ口二十枚目   3勝4敗
2001年夏場所   東序二段百二十九枚目 2勝5敗
2001年名古屋場所 東序ノ口十七枚目   3勝4敗
2001年秋場所   東序ノ口十九枚目   2勝5敗
最高位 序二段129  通算26勝54敗11休
通算出場回数 80  勝率 32.5%
 始めから問題が多くて集団からはちょっと外れた存在です。はじめは体が固くて四股、仕切もよくできなかったうえ、ひどい怪我で稽古もできない状態がつづいていました。しかし去年からは、著しい努力をしはじめたと認めるべきです。入門時には太り過ぎだった体もだいぶ均整がとれて来て、いくらか相撲取りらしい体格になりました。今では稽古も熱心にやっているので、希望が出てきました。師匠は、いちばん頑張っているのは栃谷だとまでいっていました。このことばは、辛いのを最も我慢しているのは栃谷という意味で受けとらなければならないのでしょう。自分の成績を見て、勝ち越しにもう一歩という成績といえたのに、本人は口惜しい、頑張りたいとくり返して言っていました。めずらしく英語にも興味を持っている一人です。
 九州場所以来、一敗差の負け越しが三場所もつづいていて、芽が出るのも間近いのではないかと思わせたのですが、夏場所では二勝五敗、名古屋場所でもまた一敗差の負け越し、秋場所では二勝五敗でした。口惜しいことです。
 
 
 

 成井 智史(なるい さとし)

西序二段六十六枚目
1979年11月30日生  千葉県八千代市出身
1999年春場所入門
179cm 82kg
2000年秋場所   東序ノ口十七枚目  4勝3敗
2000年九州場所  西序二段百十九枚目 3勝4敗
2001年初場所   西序ノ口四枚目   5勝2敗
2001年春場所   西序二段八十四枚目 1勝6敗
2001年夏場所   東序二段百十五枚目 4勝3敗
2001年名古屋場所 西序二段八十六枚目 4勝3敗
2001年秋場所   西序二段六十六枚目 4勝3敗
最高位 序二段66  通算49勝56敗
通算出場回数 105  勝率 46.7%
 内気で控えめな青年で、部屋では貴島に次いでの軽量ですが、筋肉はつき始めています。軽いというハンディーで負けることが口惜しくてたまらないらしく、懸命に稽古をしています。しかし冷静さが足りないので、いざというときにあわててしまって負けることがあるようです。実力は現在の成績以上と見てまちがいないのですから、一歩ずつ実績をあげて行けば、相撲をえらんだのはまちがっていなかったと、いつかは自分に対して証明できるようになれるかもしれません。
 2000年秋場所でも着実に勝ち越して、九州場所では自己最高位に達していたのですが、惜しくも三勝四敗におわり、またしても序ノ口に転落してしまいました。2001年初場所の番付は、序二段の三勝四敗力士にとっては特にひどいようです。あまりといえば不当なことでした。
 しかしはたして、初場所では、五勝二敗というすばらしい成績をあげました。これは、成井の実力を見れば、当然といえば当然のことかもしれませんが、軽量の上に指の腫れ上がったハンディーを克服し、よくもここまでやりとげたと、心からほめていいと思います。春場所番付での序二段復帰、自己最高位到達は期待されていた通りですが、昇進後の序二段というところは、少しの勝ち負けでも大幅に響いて来る地位で、これは本人が身をもって体験しているきびしい現実です。その意味で春場所の一勝六敗は痛かったのですが、これで気を落とすことなく、夏場所、名古屋場所、秋場所と三場所連続勝ち越したのは、まことにうれしいことです。
 自己最高位をさらに更新することは確かですが、今後も怪我にはくれぐれも気をつけ、地道な努力がつづいて報いられるよう、祈ってやみません。
 
 
 

 霧の藤 広明(きりのふじ ひろあき)
(霧の富士 改め

東三段目三十枚目
本名 藤本智彦  1981年10月29日生
佐賀県小城郡出身 1999年夏場所入門
183.5cm 114kg
2000年秋場所   西序二段六十七枚目 6勝1敗
2000年九州場所  東三段目九十八枚目 5勝2敗
2001年初場所   西三段目六十四枚目 2勝5敗
2001年春場所   東三段目九十枚目  5勝2敗
2001年夏場所   西三段目五十九枚目 6勝1敗
2001年名古屋場所 東三段目六枚目   2勝5敗
2001年秋場所   東三段目三十枚目  3勝4敗
最高位 三段目6  通算56勝41敗1休
通算出場回数 97  勝率 57.7%
 もとサッカーをやっていたスポーツマンで、運動神経は抜群、ほがらかでにこにこと明るい性格で、気が合いさえすればおしゃべりもきらいではないようです。稽古で、どんなつらいことをやってもいやな顔を見せません。相撲をはじめてから、まだわずかにしかならないのに、たちまちにして進歩し、筋肉もつき、成績も先輩たちを追い越してあっという間に部屋のトップランナーの列に入ってしまいました。稽古でも、今までになかった攻撃性が出て来て、当って行くさまはまさに人間魚雷の凄さを見せています。
 2000年は、夏場所、名古屋場所と負け越したあと、秋場所ではみごとな成績をあげ、通算成績でも部屋のトップクラスに入ったのは立派なものです。その結果、めでたく三段目へ昇進し、九州場所でもふたたび好成績で、初場所番付では自己最高位に達しました。2000年初場所から、霧の富士という大きな四股名を名乗ることになり、期待されていたのですが、痛恨の二勝五敗を喫してしまいました。三段目の壁はやはり厚いと言えるのでしょうか。その壁を、春場所ではついに破ったのです。壁を乗り越えての五勝二敗なのですから、その重みは、格別のものと言えます。そればかりではなく、夏場所でも快進撃はさらにつづき、六勝一敗という大成果をあげました。驚嘆に値することだといえます。しかし残念なことに、名古屋場所は不調でした。秋場所からは、霧の藤と改名することになりましたが、その秋場所では三勝四敗と、痛恨の負け越しになりました。しかし全体的には、陸奥部屋の希望の星のひとつであることは間違いないのですから、怪我には気をつけて、さらに健闘を期待します。
 
 
 

 白馬 毅はくば たけし)

西三段目五十一枚目
本名 アリオンバヤル・ウヌルジャラガラ 通称 ウヌル
1983年5月5日生 モンゴル、ウランバートル出身
1998年12月、見習い生として陸奥部屋に入る
翌年末、立田川部屋に入門し、「白馬」の四股名で2000年初場所初土俵
(1999年12月24日新弟子検査に合格)
185.5 cm、100.5 kg
2000年秋場所   東序二段三十七枚目 1勝1敗5休
2000年九州場所  東序二段七十二枚目 休場
2001年初場所   東序二段七十二枚目 7勝0敗 序二段全勝優勝
2001年春場所   西三段目六十八枚目 4勝3敗
2001年夏場所   西三段目五十枚目  4勝3敗
2001年名古屋場所 東三段目三十四枚目 3勝4敗
2001年秋場所   西三段目五十一枚目 4勝3敗
最高位 三段目34   通算37勝21敗12休
通算出場回数 58   勝率 63.8%
 ウヌルは、一年もの間、陸奥部屋に起居し、熱心に稽古にはげんでいましたが、1999年末に立田川部屋に移ることになりました。これは、部屋ごとの外国人数が二名までにおさえられているので、すでに星誕期と星安出寿が在籍していた当時の陸奥部屋には外人枠がなかったという事情によるものです。しかし、陸奥部屋が育てた力士であることはまちがいありません。立田川部屋の合併により、この人は出世して古巣に戻って来たことになります。
 このごろでは、敏捷な取り口に独特の持ち味が出て来ました。すでに自分の相撲というものを身につけているのです。将来が楽しみな、いい力士といえます。部屋第一位の勝率は、休場分を割り引きして考えても、驚くばかりです。
 2000年は秋場所以来、足首のひどい怪我で停滞中でしたが、2001年にはみごとな復活を見せました。初場所では全勝で、千秋楽の優勝決定戦でも勝ち、序二段での全勝優勝を果たしました。新生陸奥部屋としては初の優勝です。しかも、もともと陸奥部屋が育てた弟子が、初優勝を飾ったのですから、これほど喜ばしいことはありません。おめでとう。よくやってくれました。
 その結果、三段目に昇進し、春場所番付では岡本(現在霧の若)、霧の富士(霧の藤)、和歌嵐(その後引退)を抜いて部屋の若手では最高の位階に進みました。当然、今までとはくらべものにならないような強い相手と対戦することになり、これにどう対応して行けるかということが、今後の課題になっていたのですが、三段目の厚い壁を破り、春場所、夏場所でみごとに連続勝ち越しを達成したことは、その意味でまことに立派なものといえます。しかし名古屋場所では、惜しくも一敗差で負け越しとなりました。左腕と足にテーピングをしていて、怪我でハンディを負っているのでしょう。でも、陸奥部屋のホープであることには変わりはありません。秋場所でも、怪我を乗り越えてめでたく勝ち越しました。
 
 
 

 原田 大輔(はらだ だいすけ)

東序ノ口十六枚目
1982年10月5日生  兵庫県篠山市出身
2000年夏場所入門
171.5cm 83kg
2000年秋場所   東序ノ口三十八枚目  0勝2敗5休
2000年九州場所  西序ノ口三十六枚目  3勝4敗
2001年初場所   西序ノ口二十五枚目  3勝4敗
2001年春場所   西序ノ口二十一枚目  3勝4敗
2001年夏場所   東序二段百三十二枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 西序ノ口十三枚目   3勝4敗
2001年秋場所   東序ノ口十六枚目   2勝5敗
最高位 序二段132  通算18勝33敗5休
通算出場回数 51  勝率 35.3%
 おとなしい性格で、陸奥親方にあこがれて相撲の世界に入って来た青年です。柔道の経験があります。おとなしすぎて闘争心がないので、もともと相撲に向いているとはいえないでしょうが、少しずつ慣れて来ています。はじめの頃にくらべると、負けがこんでくるのにどうすれば対応できるのかというこつは、だんだん身について来ているように感じます。いずれにしても、体がきゃしゃなので、勝ち進むためには人より数倍の努力が必要であることはたしかで、それにどこまで耐えて行かれるかということが一番の問題でしょう。
 五場所つづけて、一敗差で負け越し、これはむしろ、前途に希望がもてる前兆と見てもいいのではないかと思っていたのですが、秋場所では、二勝五敗となってしまいました。まことに残念なことです。
 
 
 

内山 直也(うちやま なおや)

西序ノ口二十四枚目
1985年4月5日生 名古屋市名東区出身
2001年春場所入門 3月3日新弟子検査合格 新序二番出世
173cm 120kg
2001年春場所   前相撲       二番出世
2001年夏場所   東序ノ口三十六枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 東序ノ口二十八枚目 3勝4敗
2001年秋場所   西序ノ口二十四枚目 4勝3敗
最高位 序ノ口24  通算10勝11敗
通算出場回数 21 勝率 47.6%
 久しぶりの新弟子です。春場所で前相撲を取り、二番出世し、夏場所、名古屋場所とつづいて三勝四敗の成績でした。最初の出足としては悪くないといえます。
 体重は十分で、相撲の早い動きにもかなりのところまでついて行けるようです。これで経験を積めば、将来の見通しは明るいでしょう。秋場所ではめでたく勝ち越し、これを契機として将来への道が開けて行くよう、期待してやみません。
 
 
 
 
 

 床大 (とこだい)

三等床山
本名 大橋太司
1970年7月24日生 新潟県出身
1986年九州場所入門
 控えめな人で、目立ちませんが、なんでもできる才能の持ち主です。この人の結ったまげはしっかりしていて、なかなか崩れません。わかりの早いことも驚異的で、一言いえば十を察するといったタイプです。稽古の様子もよく見ていて、自分もさまざまの準備運動をします。もし身長がもう少しあれば、きっといい力士になれたでしょう。お酒を飲み過ぎるのが玉に瑕だということを聞いたことがありますが、めずらしい好人物です。
 
 
 
 
 
 

以下は相撲協会に属していないメンバーです。
 

 吉永 奈穂子(よしなが なおこ)

おかみさん
鹿児島県出身
 おつきあいが多すぎるので、ほんとうにたいへんです。みんなが地方場所や合宿などに出ていてからっぽになった部屋の留守番をする時などは、おかみさんの毎日は特につらくなります。ひっきりなしに一日中鳴り続ける電話の番 ― ジャーナリスト、後援者、知人などのほか、弟子たちの家族の人たちが安否をたずね、ちゃんとやっているのかなどと聞いてくるのに答えたり、一身上の相談にのったりするのもおかみさんの仕事になります。また、これら「子供たち」の悩みを聞いてやり、なぐさめたり、なだめたり、すかしたりなどの心理的な問題のほか、もめごとの仲裁などに狩り出されることもあります。とにかく入れ替わり立ち替わりに、居室に出たり入ったりされるわけです。お風呂にまで入って来ることもあるそうです !!! このストレスはなみたいていのものではありません。健康がすぐれないので、ダウンしてしまうこともしばしばです。
 
 
 
 

 田村 喜一(たむら きいち)

陸奥部屋マネージャー
元幕下岸の里
1966年9月6日生  大阪府岸和田市出身
1982年春場所入門  1997年現役を引退
 おそろしく無口なので、愛想も知らないといわれることがありますが、相撲と陸奥部屋が唯一の生きがいであることはうたがいありません。実直一方、部屋の雑用係といった感じで、どんなことでもいやな顔ひとつしないで引き受けています。ちゃんこ番をひとりでやることもしばしばで、料理の腕はたしかです。でも元岸の里の田村マネージャーの本領が出てくるのは、稽古の指導をするときです。弟子たちの長所も弱点も知りつくしているので、適切な助言をし、ときには叱りますが声を荒らげることはあまりありません。
 
 
 

 北原 敏文(きたはら としふみ)

親方付マネージャー
1949年12月22日生  長崎県出身
2000年1月より親方付マネージャーとして陸奥部屋に入る
 前には板東英二、上岡龍太郎のマネージャーをしていたプロです。以前からの霧島ファンで、陸奥親方のためになることならなんでも懸命にやります。親方の多忙なスケジュールを調整する仕事のほか、外部との連絡、部屋のPRなど、一切を総括しています。この人がいるおかげで、田村マネージャーは、苦手の雑務から解放され、部屋内部の指導などに専念できるわけです。
 
 




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