陸奥部屋のメンバー2001-2002年
陸奥部屋ニュース


(2002年12月7日更新)


  元大関霧島を師匠とする陸奥部屋は、両国国技館にもっとも近い相撲部屋です。1998年2月15日に土俵開きをした当時は、旧陸奥部屋から引き継いだ星誕期、星安出寿などのほか、力士は八人にすぎなかったのですが、わずかの間に急成長を遂げ、2000年9月21日には、敷島、十文字、豊桜、琉鵬など、旧立田川部屋の力士たちも移籍して来て、若手力士たちの昇進もめざましく、今では実力部屋の一つとなりました。
 

 このページは、メンバーたちのことがよくわかるように構成してあります。各力士のデータのあとに、それぞれの横顔を描いていますが、この部分は、もちろん起草者の個人的見解です。
 

         
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(力士は入門順、同期の場合は五十音順)


 陸奥 一博(みちのく かずひろ)

師匠
元大関 霧島

本名 吉永一美  1959年4月3日生
鹿児島県姶良郡牧園町出身  1975年春場所入門
最高位 東大関  
優勝1回 殊勲賞3回 敢闘賞1回 技能賞4回 金星2
通算754勝696敗40休
通算出場回数 1450 (なお、いろいろの統計で、1447というのはまちがいです。)
勝率 52.0% (大関としての勝率は64.7%)
1996年3月24日引退 年寄錣山(しころやま)襲名
1997年5月 年寄勝ノ浦襲名
1997年12月 年寄陸奥襲名
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 富士ヶ根 誉基(ふじがね よしもと)

年寄
準年寄 敷島勝盛、2002年1月17日より年寄立田川勝盛、同9月17日からは年寄富士ヶ根勝盛となる。その後、勝盛を誉基と改名)
本名 吉種弘道
四股名 敷島勝盛
1970年12月15日生   千葉県船橋市出身
1989年初場所初土俵
1993年夏場所新十両
1994年九州場所入幕 幕内在位 28場所
2001年5月13日引退、翌日から準年寄敷島となる
2002年1月17日、立田川を襲名、年寄となる
2002年9月17日、富士ヶ根と改名

最高位 前頭筆頭   通算416勝418敗30休
 (幕内戦歴 175勝228敗17休)
通算出場回数 835 勝率 49.9%
金星2 (1998年春場所と夏場所、ともに貴乃花から)
十両優勝1回  幕下優勝1回
得意技 左四つ、左差し、右上手、寄り切り、上手投げ

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陸奥部屋での敷島
敷島の黄金時代
 

 稽古場はもちろん、日常生活などでも見せるちょっとした体の動きかたを見ただけでも、長いあいだ上位でやって来た人だということが、すぐわかりますし、余裕十分の垢抜けた雰囲気をこの人はかもし出し、自分の生き方と人格とが完全にマッチしている人を見るときの安心感のようなものを感じさせるのです。ふだんはめがねをかけているのがちょっと残念ですが、威厳とエレガンスを兼ね備えているのがよくわかります。また、美声でも知られていて、相撲甚句の名手です。
 2001年初場所では、持病の心臓疾患が出て、二日目からやむなく休場のはめになってしまいました。これによって敷島は、永い間つとめて来た関取の座を失うことになりました。まさに痛恨の出来事だといえます。
 医者は、相撲をやめろとは言っていなかったのだそうですが、減量は絶対に必要だということで厳しいダイエットを強制され、四ヶ月の間になんと50キロ近くも痩せてしまいました。140キロ台まで落ちたことで、健康状態そのものはかなりよくなったようでしたが、これによる精神面への影響はひどいものでした。こんな体では自分本来の相撲はとても取れなくなってしまったし、このように情けない姿をお客さまの眼にさらすのは、とても耐えられないとくりかえして言い、すっかり落ち込んでしまったのです。見る眼にもなんとも気の毒なありさまでした。
 その後も、病気は快方に向かってはいたのですが、とても相撲の取れる状態ではなく、春場所を休場したあと、ついに2001年夏場所初日に引退届を提出しました。引退は、翌5月14日の持ち回り理事会で承認され、準年寄敷島となりました。
 引退会見では無理をして陽気に振舞い、ダイエットの本が出せるなどとジョークを飛ばしていましたが、どんなに辛かったかは察するにあまりあります。
 現在は部屋付き親方として、きわめて熱心に稽古に立ち会い、後進の指導にあたっていますが、静かな、落ち着いた様子の中で時々見せる暗い表情を見ると、なんとも言えない気分になってしまいます。
 敷島の断髪式は、9月30日、国技館で開催され、四百人ほどの人たちが鋏を入れました。
 この断髪式の模様は、相撲各誌11月号の、写真ページに掲載されています。(大相撲、相撲、NHK大相撲中継)また、12月6日発売の『リラックス』(マガジンハウス発行)では、6ページにわたる紹介記事が出ています。
 現在では健康状態はすっかりよくなり、月に一回、念のために診察に通い、毎日薬をのむだけになりました。

 2002年初場所五日目に、立田川の名跡をうけ、年寄となりました。かつては敷島自身も所属していた名門の立田川を襲名したことは、感慨もひとしおでしょう。これについては、雑誌「相撲」2002年2月号の107ページに記事が出ています。
 病気のために辞めることになった当時は息が切れ、体が動かなくて力も衰え、本当に口惜しかったけれども、今の心境としては昔は昔として割り切り、若いもののことを考えて、後進の育成に全力を尽くすことが今の生きがいであり、自分の経験を若いものに伝えて行くことこそ、未来につながる道だと考えていると言っています。
 NHKテレビでの解説(十両までの取組)もやっていて、個性にあふれた解説をするので、評判がいいようです。
 最近、自分の見解を紹介する記事を、自分で書いたものがあります。八月末発売の、スポルティーバという雑誌に第一回を発表、以降も連載の予定です。
 9月17日、湊富士が引退して立田川を襲名することになり、これにともなって敷島は富士根親方と改名しました。
 
 

 福ノ里 邦男(ふくのさと くにお)

若者頭(わかいものがしら)
本名 福田邦男
1961年6月4日生  岩手県出身
1989年秋場所新十両
最高位 十両13  通算333勝294敗7休
 もともとは立田川部屋の若者頭だった人ですが、立田川部屋の正式併合に先立って、2000年の始めごろから陸奥部屋の稽古に立ち会い、陸奥親方とならんで稽古場に座り、熱心に指導をしています。稽古の間は注意深くみんなの様子を観察し、こまめにノートをとっていたのが印象的です。静かな人で、弟子たちに注意をする時も声を荒らげたりすることはありません。なにごとも実に良心的になしとげるといった感じが眼に見え、この人がそこにいるだけで安心感を与えるのです。人間味があり、近付きがたいという印象は受けません。
 相撲協会の若者頭ですから、部屋の仕事以外でも国技館でのいろいろな行事を手伝っているところが、よくテレビにも写っています。特に、各場所の優勝力士の表彰式では、福ノ里さんの姿がいつも見えます。
 なお、『NHK大相撲中継』の初場所展望号(2002年1月)に、「若者頭が選ぶ幕下ホープ」の記事を発表しています。
 
 
 
 

 星誕期 偉真智(ほしたんご いまち)

西幕下八枚目
本名 星 誕期(ほし たんご) (2000年10月25日付で日本に帰化)
前名 イマチ・マルセロ・サロモン (Imach Marcello Salomon)
1965年9月5日生
アルゼンチン、ブエノスアイレス出身
1987年夏場所入門
1992年秋場所新十両
184cm 162kg
1998年初場所   西幕下二十二枚目 5勝2敗
1998年春場所   西幕下九枚目   4勝3敗
1998年夏場所   西幕下五枚目   5勝2敗
1998年名古屋場所 東幕下二枚目   6勝1敗
1998年秋場所   東十両十三枚目  9勝6敗
1998年九州場所  西十両十枚目   8勝7敗
1999年初場所   東十両九枚目   7勝8敗
1999年春場所   西十両十一枚目  9勝6敗
1999年夏場所   西十両七枚目   6勝9敗
1999年名古屋場所 東十両十一枚目  8勝7敗
1999年秋場所   東十両十枚目   8勝7敗
1999年九州場所  西十両八枚目   9勝6敗
2000年初場所   西十両三枚目   5勝10敗
2000年春場所   東十両七枚目   6勝9敗
2000年夏場所   西十両十枚目   8勝7敗
2000年名古屋場所 東十両八枚目   0勝15敗
2000年秋場所   東幕下八枚目   6勝1敗
2000年九州場所  西幕下筆頭    3勝4敗
2001年初場所   東幕下七枚目   3勝4敗
2001年春場所   西幕下十三枚目  5勝2敗
2001年夏場所   東幕下七枚目   3勝4敗
2001年名古屋場所 東幕下十四枚目  4勝3敗
2001年秋場所   西幕下十一枚目  2勝5敗
2001年九州場所  西幕下二十三枚目 3勝4敗
2002年初場所   東幕下三十四枚目 5勝2敗
2002年春場所   西幕下二十四枚目 3勝4敗
2002年夏場所   西幕下三十二枚目 5勝2敗
2002年名古屋場所 東幕下十七枚目       3勝4敗  
2002年秋場所   西幕下二十五枚目 6勝1敗
2002年九州場所  西幕下八枚目   2勝5敗
最高位 十両3  通算410勝359敗11休
通算出場回数 769  勝率 53.0%
得意技 突き押し
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 旧陸奥部屋時代からの生え抜き、最先輩力士としての責任感は十分もっています。膝と肘の故障がまだよくなっていないようですが、「でも何でもない、ダイジョウブヨ」などと、そんなことは気にしていられないという調子でくりかえしています。とにかく相撲では、「できるかぎりのことをやるしかない、運不運などない、実力がすべてで、成績や番付順はそれで決まるもの」と割り切ったことを言います。ベテランのことですから、負けが重なっても番付が落ちても、「それはよくあること」で、あまり気にしていないように見えます。陽気な性格ですが、実際は神経質で、ピリピリしていて、衝動的で怒りっぽいところがあります。このあたりは、ラテンアメリカそのもののように見えるのですが、これは本人には言えません。「外人は顔だけ、心は日本人」だと確信しているらしく、ガイジンだといわれると本気で腹をたてるのです。歌はさすがに上手で、カラオケでは大将格だそうです。音楽を聴くことが趣味で、聴いていると心が休まると言っています。子供好き、動物好きです。

 1998年秋場所から十場所にわたって、十両の座を維持していたのですが、2000年名古屋場所で全敗したため、幕下に転落してしまいました。
 2002年初場所では、五場所ぶりに五勝二敗の好成績をあげ、本来の実力を発揮しましたが、春場所は三勝四敗で、惜しい負け越しとなりました。しかし夏場所では元気いっぱい、ふたたび五勝二敗で存在感を発揮しました。名古屋場所の後では、「別に悪い所はありません。元気です。ただ勝てないなあ。でも、それにしても元気です。」と、笑顔で言っていました。秋場所では、久しぶりに六勝一敗をあげ、まだまだ健在であることを見せてくれましたが、九州場所では負け越しました。
 現在、37才のベテランです。今のところ、霧の藤の成長に期待をかけ、熱心に指導しているようです。
 
 
 

 豊桜 嘉人(とよざくら よしひと)

西十両六枚目
本名  向 俊明
1974年3月12日生  広島市安佐北区出身
1989年春場所初土俵
1998年秋場所新十両
182cm    137kg
2000年秋場所   西幕下筆頭   5勝2敗
2000年九州場所  西十両九枚目  8勝7敗
2001年初場所   西十両七枚目  5勝10敗
2001年春場所   西十両十一枚目 1勝3敗11休(3敗は不戦敗1をふくむ)
2001年夏場所   西幕下九枚目  公傷休場
2001年名古屋場所 西幕下九枚目  5勝2敗
2001年秋場所   東幕下四枚目  4勝3敗
2001年九州場所  西幕下二枚目  3勝4敗
2002年初場所   西幕下六枚目  3勝4敗
2002年春場所   西幕下十二枚目 6勝1敗
2002年夏場所   東幕下二枚目  7勝0敗  全勝で幕下優勝
2002年名古屋場所 東十両八枚目        5勝10敗 
2002年秋場所   東十両十二枚目 11勝4敗
2002年九州場所  西十両六枚目  7勝8敗
最高位 十両6    通算339勝288敗20休
通算出場回数 627  勝率 54.1%
幕下優勝2回  三段目優勝1回
得意技 右四つ、突っ張り、右差し、左上手、寄り切り
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 敷島に次いで長い相撲人生を送ってきた人で、それは、怪我と不運との闘いだったのです。いかにも苦労人らしい、人間味と思いやりのある人格の持ち主です。心を開いての率直な人間関係をもてる人で、近寄りやすく、威張った顔はまったく見せません。はるか下の弟子たちへも寛容さと同情にあふれたまなざしを送っているのが印象的で、好感を呼びます。相撲甚句が得意で、パーティーなどで披露してくれます。合いの手は琉鵬が入れ、呼吸がよく合っています。
 三歳上の兄、北桜と同じく、昔は柔道から相撲界に入り、ウェイトトレーニングをやって筋肉をつけて来ました。お父さんも元力士で、豊桜の名は父親のしこ名を受け継いだものです。
 2000年九州場所以来十両の地位を占めて来たのですが、2001年春場所では、三日目の隆の鶴戦で負傷してしまいました。右大腿筋部分断裂、八週間要治療で、公傷と認定されました。この結果、四日目の光法戦は不戦敗、その後は休場となり、幕下に落ちてしまいました。豊桜の休場は、1998年九州場所以来のことで、まことに残念なことでした。
 その後、成績は決して悪くなく、場所ごとに十両への復帰が期待されていたのですが、幕下上位には十両候補がひしめいているため、一進一退が続いていました。
 しかし、2002年春場所での六勝一敗の好成績につづき、東幕下二枚目で迎えた夏場所の豊桜はすばらしい成果をあげました。初日に朝赤龍を寄り倒しで降したのを皮切りに、三日目に若天狼を突き落とし、五日目は琴冠佑、六日目は須磨ノ富士、九日目は金開山をそれぞれ寄り切り、十一日目に古市を突き落として、一つも星を落とさないままでの十三日目の相手は幕下付出しの成田(尾車部屋)でした。成田は元学生横綱、ここまで全勝で来ていて衆目一致して優勝候補と見られていました。豊桜はこの成田を引き落としで破り、みごとに全勝優勝をきめたのです。
 これにより待望の十両復帰がかない、東十両八枚目となりました。七場所ぶりの関取復帰は、まことに夢のように喜ばしいことでした。
 ところが、2002年名古屋場所前の稽古場で、左の大腿部の怪我のほか、右腕上部の肉離れを起こしてしまい、これが名古屋場所での不成績の原因になりました。大腿部の怪我はもう大丈夫ですが、腕の方は痛みで使いものにならず、三週間要加療で、場所中の落ち込み方はなみたいていなものではありませんでした。千秋楽になってからはやっと表情も和み、「今場所はつらかった。來場所はなんとかやります。」と話していました。八月末現在でも、腕の傷はまだよくならず、稽古はずっと三段目を相手にしてしかできない状態でした。
 しかし秋場所になってみると、すべての予想を越える好成績で、千秋楽までになんと十一勝四敗をあげ、玉力道、金開山と並んで十両優勝決定巴戦にまで加わることになりました。その巴戦では玉力道に敗れ、優勝を見のがしてしまいました。これは本人にはどんなにか口惜しいかったことでしょう。それでもやはり、これからちょっと安心できる余地も出てきたのが、何よりです。九州場所番付では、西十両六枚目、自己最高位となりましたが、結果は七勝八敗、一敗差の惜しい負け越しでした。
 
 
 

 十文字 友和(じゅうもんじ ともかず)

西前頭十三枚目
元 階ケ嶽松太郎
本名 十文字友和
1976年6月9日生   青森県階上町出身
1992年九州場所初土俵
1998年初場所新十両
2000年夏場所新入幕
185cm    150kg
2000年秋場所   東十両二枚目  9勝6敗
2000年九州場所  西前頭十二枚目 5勝10敗
2001年初場所   東十両三枚目  8勝7敗
2001年春場所   西前頭十三枚目 9勝6敗
2001年夏場所   東前頭七枚目  7勝8敗
2001年名古屋場所 東前頭九枚目  4勝11敗(千秋楽の不戦敗をふくむ)
2001年秋場所   東十両二枚目  公傷休場
2001年九州場所  東十両二枚目  8勝7敗
2002年初場所   西前頭十四枚目 6勝9敗
2002年春場所   西十両二枚目  11勝4敗
2002年夏場所   西前頭九枚目  6勝9敗
2002年名古屋場所 東前頭十二枚目    5勝10敗
2002年秋場所   西十両三枚目   10勝5敗
2002年九州場所  西前頭十三枚目 8勝7敗
最高位 前頭7    通算307勝258敗15休
通算出場回数 565  勝率 54.3%
三段目優勝1回
得意技 右四つ寄り、左上手、寄り切り
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 いうまでもなく、現在の陸奥部屋では最上位の力士です。口数が少なく、よけいなことは言いませんが、穏やかな表情で、落ち着いていてしかも強さをそなえている人です。
 しかし、部屋頭としての責任が重圧になっていることは疑いありません。心理的としかいえないような負け方をすることが多く、幕内と十両の間を行き来することが重なるのも、地位が上がるのにしたがって取り口を批判されることが多くなり、これによる精神面でのストレスがかなり響いているのではないかという気がしてなりません。

 2001年名古屋場所では、調子が悪かった上、十四日目の海鵬戦で腰に重傷を負い、自力では起き上がることができず、車椅子で退場、緊急入院という大事故に遇ってしまいました。その後、怪我はややよくなってふつうに歩くことができるようになりました。軽い稽古を少しずつ始めていました(上の写真)が、秋場所ではまだ出場できる状態ではなく、休場となりました。番付も十両二枚目に落ちてしまい、ふたたび幕内の地位を失うことになりました。
 このようなはかばかしくない状況で迎えた九州場所では、まず五連敗してみんなをはらはらさせましたが、その後急にもちなおして五連勝し、千秋楽になって見ると奇跡の勝ち越しになっていました。来場所からの帰り入幕は当然と考えられていましたが、これはめでたく実現しました。しかし西十四枚目の、負け越しは許されない状態で迎えた2002年初場所では、必死の善戦にもかかわらず痛恨の六勝九敗を喫してしまい、十両落ちは避けられない状況にいたりました。
 かくして西十両二枚目となっていた春場所では、十一勝四敗という驚異の成績をあげ、全ファンを狂喜させてくれました。これで夏場所番付では、西前頭九枚目となりました。
 幕内での活躍が待望されていた夏場所はサスペンスの連続でした。冒頭に出島に押し出されてけちがついたのか三連敗、ひやひやさせたあと、四日目になって千代天山を寄り切ってようやく初日を出し、それからは黒星と白星が伯仲する状況で千秋楽まで来てしまいました。でも、武雄山を突き落とし、琴ノ若を切り返し、安芸乃島を寄り切り、栃乃花をすくい投げなど、光る技を見せ、千秋楽には玉乃島を寄り切りました。六勝九敗でしたが、内容的には立派だったといえます。名古屋場所番付では、東十二枚目で幕内維持を果しましたが、成績は五勝十敗、この結果、またしても十両に転落することになりました。
 十文字は夏中、烈しい稽古を続けていました。陸奥部屋では部屋の最強力士たちとの三番稽古で圧倒的な強さを見せ、長い稽古にも疲れを見せません。このほか、北ノ湖部屋など他の部屋への出稽古も根気よく続けていました。
 このようにして迎えた秋場所では、初日に一勝してから二連敗、続いて四連勝三連敗という星取りで、十日目の時点では五勝五敗、まさにサスペンスでした。ところが十一目からは白星の連続、幕内二人をふくむ強敵を次々に降して奇跡の五連勝をなしとげ、十勝五敗という好成績で千秋楽を迎えました。
 その結果、九州場所番付では西前頭十三枚目となりました。なんと六回目の帰り入幕で、しかも勝ち越しました。ふつう、幕内から十両に落ちるとそのままになってしまう力士の多い中で、十文字は落ちても落ちても決してくじけることなく、一場所か二場所でかならず幕内に戻ってくることに注目すべきだと思います。記録的な帰り入幕の回数は、この意味で十文字の実力を雄弁に語っているといえます。

 なお十文字は、「相撲」2002年3月号、『先代立田川夫人が急逝 おかみさん、安らかに』という題名で、もとのおかみさん、小笠原幸子さんの思い出を語っています。
 十文字に関する記事はたくさんありますが、その中でも、「大相撲」2002年5月号に出た、写真入り3ページの紹介記事は、代表的なものです。
 
 
 
 

 琉鵬 桂助(りゅうほう けいすけ)

西十両十一枚目(2002年9月25日、十両昇進)
  マ新十両 琉鵬

本名 浦崎桂助
1977年6月18日生  沖縄県中城村出身
1993年春場所初土俵
184cm    136kg
2000年秋場所   東幕下四十枚目  5勝2敗
2000年九州場所  東幕下二十一枚目 4勝3敗
2001年初場所   西幕下十六枚目  3勝4敗
2001年春場所   西幕下二十六枚目 3勝4敗
2001年夏場所   東幕下三十四枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 西幕下四十三枚目 5勝2敗
2001年秋場所   西幕下二十七枚目 4勝3敗
2001年九州場所  東幕下二十四枚目 2勝5敗
2002年初場所   西幕下三十九枚目 4勝3敗
2002年春場所   東幕下三十四枚目 5勝2敗
2002年夏場所   東幕下十九枚目  4勝3敗
2002年名古屋場所 東幕下十三枚目     6勝1敗(幕下優勝決定戦に参加) 
2002年秋場所   東幕下二枚目   4勝3敗
2002年九州場所  西十両十一枚目  5勝10敗

最高位 十両11    通算215勝187敗12休
通算出場回数 402   勝率 53.5%
得意技 左四つ、寄り

 見るからに真面目で、考え深そうな人です。よく眉をちょっとしかめているのが印象的です。自分で話すよりも相手の話をよく聴いているようで、常識にあふれた人格なのが眼に見えます。昔は沖縄の海で素潜りが得意だったという、根っからの琉球人です。
 なお、雑誌大相撲の2001年10月号に、琉鵬についてのくわしい紹介記事(幕下訪問欄の全ページ記事、筆者は向井太)が出ています。

 2001年はどちらかといえば不運な年でしたが、2002年初場所では勝ち越し、春場所でも五勝二敗と好成績で、夏場所番付では東十九枚目に上がりました。結果は四勝三敗での勝ち越しで、名古屋場所番付では自己最高位を更新することになりました。
 その名古屋場所では、六勝をあげて幕下優勝決定戦に参加しました。行司軍配は琉鵬にあがっていたのですが、物言いがついて勇み足と判定されてしまいました。準優勝といえるすばらしい成績だっただけに、なんとも後味の悪い結果でした。しかし四場所連続の勝ち越しとなる六勝一敗は、すばらしいものだったといえます。
 秋場所番付では自己最高位の幕下二枚目、関取の地位に手の届く立場になりました。この状態での成績がどうなるかはまさにサスペンスで、ファンの視線が集中する中、八日目までに四勝一敗の快進撃、中でも三日目に豪風、八日目にベテランの貴闘力と、十両力士二人を降したことは注目を浴びました。それなのに最後の二戦が黒星になってしまい、四勝三敗に終わったのは、実に口惜しいことでした。でも準優勝をふくむ五場所連続の勝ち越しは高く評価されるべきです。
 これにより、関取昇進が期待されていましたが、琉鵬がついに新十両となることが、2002年10月25日、相撲協会から公表されました。同日発表になった十両昇進者は計五名ですが、他の四名は再昇進なので、新十両は琉鵬ひとりです。沖縄県出身では、四人目の関取です。
 相撲人生の中で一番うれしいのは、十両になった時だと、親方も自分の本で述べています。それまで無給だったのが正式に給料が出るようになり、大部屋生活を脱して個室が与えられ、付け人に身の回りの世話をしてもらえるし、公式の場では化粧まわし、大銀杏が許されるなど、力士生活のすべてが変るわけです。本人と家族もさぞ嬉しいことでしょうが、新生陸奥部屋としてもはじめての新十両です。おめでとうございます。郷里では、大変な盛り上がりぶりで、11月1日に開かれた激励会には、六百人以上の人が参加しました。
 ところが九州場所では、痛恨の五勝十敗を喫してしまいました。実に残念なことです。どんなに口惜しかったか、また位階の重圧に耐えていくことがどんなに苦しく、つらかったか、目に見えるようです。
 でも琉鵬は、こんなことに負けるような人ではないはずです。ふだんの稽古でつちかって来た力を生かして、本来の地味な努力を積み重ねていくことができれば、将来は明るいといえるでしょう。
 
 
 

 霧の海 剛(きりのうみ つよし)
(元 秋の里 貴士(あきのさと たかし) 2001年秋場所から改め)

西幕下三十六枚目
本名 秋山貴志
1979年7月29日生  青森県八戸市出身
1995年春場所初土俵
181.5cm    160kg
2000年秋場所   西三段目二十九枚目 5勝2敗
2000年九州場所  西三段目筆頭    3勝4敗
2001年初場所   西三段目十五枚目  2勝2敗3休
2001年春場所   東三段目三十六枚目 2勝3敗2休
2001年夏場所   西三段目五十八枚目 公傷休場
2001年名古屋場所 西三段目五十八枚目 4勝3敗
2001年秋場所   西三段目四十一枚目 4勝3敗
2001年九州場所  東三段目二十八枚目 6勝1敗
2002年初場所   東幕下四十七枚目  5勝2敗
2002年春場所   西幕下三十三枚目  5勝2敗
2002年夏場所   東幕下十八枚目   4勝3敗
2002年名古屋場所 西幕下十二枚目        3勝4敗
2002年秋場所   東幕下十九枚目   2勝5敗
2002年九州場所  西幕下三十六枚目  3勝4敗
最高位 幕下12    通算166勝116敗47休
通算出場回数 282   勝率 58.9%
得意技 突き押し
 初土俵からの総合成績はじつに立派で、現在までの勝率では十文字を超えているのは大したものです。小学校時代に相撲をやり、賞をとっているそうです。

 2001年までは怪我に悩まされ、さんざんの不運でした。右膝を傷めていたのが、初場所中にまた悪くなり、四日間取った後、休場のやむなきにいたりました。このために、春場所番付では二十枚以上も下がっています。しかも、怪我はまだよくならず、春場所は二勝三敗のあと休場、夏場所も全休となってしまいました。まことに残念なことでした。
 2001年秋場所では、霧の海と改名することになり、ふたたび四勝三敗で勝ち越しました。早く全快して本来の実力が発揮できるようになることを、願ってやみません。
 しかし、名古屋場所へは怪我を押して出場し、四勝三敗で勝ち越して底力を見せてくれました。つづく九州場所では六勝一敗の大勝ちです。いよいよ稽古の成果が現れてきたのでしょう。これによって、新番付では久しぶりの幕下復帰が、ついに実現しました。当然のこととはいえ、心からおめでとうといいたいところです。しかもこの上昇気流は2002年初場所と春場所でもつづき、ともに五勝二敗の好成績でした。夏場所でも四勝三敗で勝ち越しましたので、これで六場所連続の勝ち越し、四度にわたって最高位を更新することになり、まことに喜ばしいことでしたが、名古屋場所では、鼻を骨折し、またしてもハンディを負うことになりました。それ以後、やや不振です。
 
 なお、「相撲」2002年3月号および「大相撲」2002年5月号に、霧の海について紹介記事が出ています。
 
 
 

 山竜 将太朗(やまりゅう しょうたろう)

西三段目三十九枚目
元 山竜将太 (2001年7月から将太朗と改める)
本名 山本竜太
1981年3月15日生  東京都江戸川区出身
1996年春場所初土俵
179.5cm    126.5kg
2000年秋場所   西序二段六枚目   4勝3敗
2000年九州場所  東三段目八十八枚目 4勝3敗
2001年初場所   西三段目六十九枚目 2勝5敗
2001年春場所   西三段目九十六枚目 1勝6敗
2001年夏場所   西序二段二十九枚目 5勝2敗
2001年名古屋場所 東三段目九十五枚目 6勝1敗
2001年秋場所   東三段目三十五枚目 3勝4敗
2001年九州場所  東三段目五十三枚目 3勝4敗
2002年初場所   東三段目七十枚目  3勝4敗
2002年春場所   西三段目八十七枚目 4勝3敗
2002年夏場所   西三段目六十八枚目 2勝5敗
2002年名古屋場所 東三段目八十六枚目 5勝2敗
2002年秋場所   西三段目五十三枚目 4勝3敗
2002年九州場所  西三段目三十九枚目 1勝6敗
最高位 三段目35  通算132勝148敗
通算出場回数 280  勝率 47.1%
 もの柔らかで、あまり目立ちたがらない人です。口数が少なく、静かで落ち着いていて、進んで他人の役に立ちます。英語を少ししゃべるのは部屋では珍しいことです。
 この人も、左の膝の怪我のため、2001年初場所から春場所までは負けが続き、序二段に転落しましたが、夏場所では本来の実力を発揮して期待にこたえ、みごとに五勝二敗の好成績をあげ、三段目に復帰しました。また、つづく名古屋場所でも、六勝一敗と大勝ちし、秋場所番付では自己最高位を大きく更新することになりました。しかしその後、2002年初場所まで三勝四敗の負け越しが続き、その間の番付運が悪く、合計でなんと五十二枚も番付を下げられてしまいました。それからも一進一退の状況が続いていましたが、2002年名古屋場所では五勝二敗の好成績をあげることができ、これを機に自信をとりもどすことを、願うばかりです。秋場所でも勝ち越しはつづき、四勝三敗でした。しかし九州場所では不運で、一勝六敗になってしまいました。
 
 
 

 霧昇 有康(きりのぼり ともやす)

西序ノ口三十二枚目
元 力涛  1998年名古屋場所から霧昇と改名
本名 前田有康   1975年4月27日生
静岡県裾野市出身  1997年名古屋場所入門
178cm 106kg
1998年初場所   東序ノ口二十四枚目  3勝4敗
1998年春場所   東序ノ口十八枚目   1勝6敗
1998年夏場所   東序ノ口十八枚目   5勝2敗
1998年名古屋場所 東序二段百三十一枚目 1勝6敗
1998年秋場所   西序ノ口八枚目    4勝3敗
1998年九州場所  西序二段百三十六枚目 3勝4敗
1999年初場所   西序ノ口筆頭     4勝3敗
1999年春場所   西序二段百二十枚目  3勝4敗
1999年夏場所   西序二段百三十九枚目 3勝4敗
1999年名古屋場所 西序二段百五十四枚目 3勝4敗
1999年秋場所   東序ノ口七枚目    4勝3敗
1999年九州場所  東序二段百三十八枚目 4勝3敗
2000年初場所   西序二段百九枚目   3勝4敗
2000年春場所   西序二段百二十一枚目 3勝4敗
2000年夏場所   西序二段百三十四枚目 2勝5敗
2000年名古屋場所 西序ノ口六枚目    5勝2敗
2000年秋場所   西序二段百七枚目   1勝6敗
2000年九州場所  東序ノ口九枚目    4勝3敗
2001年初場所   西序二段百六枚目   2勝5敗
2001年春場所   西序ノ口四枚目    4勝3敗
2001年夏場所   東序二段九十五枚目  3勝4敗
2001年名古屋場所 西序二段百八枚目   休場
2001年秋場所   西序ノ口四十枚目   休場
2001年九州場所  番付外        前相撲出場
2002年初場所   東序ノ口三十四枚目  5勝2敗
2002年春場所   西序二段九十八枚目  3勝4敗
2002年夏場所   西序二段百十一枚目  3勝4敗
2002年名古屋場所 西序ノ口四枚目           5勝2敗
2002年秋場所   西序二段七十八枚目  休場  
2002年九州場所  西序ノ口三十二枚目  5勝2敗
最高位 序二段78  通算90勝104敗21休
通算出場回数 194  勝率 46.4%
 陸奥部屋の若手としてはいちばんの古参者ですから(旧陸奥部屋時代からの弟子で、今もう二十七才)、土俵経験がゆたかなことはたしかで、体つきや態度までいかにも相撲取りらしく、初心者のようなところはまったくありません。番付上では後進たちに抜かれていても、先輩として一目置かれているようです。もともと冷静で、控えめな人なのですが、本来は負けん気も十分なのですから、現在のままであきらめるはずはないでしょう。
 2001年はさんざんの不運でした。怪我のための休場で、番付外にまで後戻りしていました。見るのも恐ろしいほど、右肩から耳までひどく腫れ上がっているのです。一日も早く運が開け、日々の努力が報いられることを祈ります。
 二場所つづいての休場のあと、九州場所では前相撲に出場しました。これで番付には載ることになりましたが、怪我の状態はやはり思わしくないようで、心配です。それでも2002年初場所では五勝二敗をあげて序二段復帰を果たし、実力を見せたのですが、春場所、夏場所と続けて、惜しくも一敗差で負け越し、またしても序ノ口へ転落です。肘に「ねずみ」といわれる骨の突起物があるので、腕に力が入らないのだそうです。しかし名古屋場所では五勝二敗、まさに気力で勝ち取った星でした。秋場所番付では、自己最高位に達しましたが、残念ながら肘の故障のため休場になり、九州場所は気分一新、五勝二敗を獲得しました。
 
 
 

 桜島 弘聖(さくらじま こうせい)

西序ノ口十枚目
本名 下迫弘聖 2000年秋場所から桜島となる
1982年6月1日生 鹿児島市出身
1998年春場所入門
179cm 108kg
1998年夏場所   西序ノ口三十九枚目  1勝5敗1休
1998年名古屋場所 西序ノ口四十二枚目  2勝4敗1休
1998年秋場所   西序ノ口四十三枚目  3勝4敗
1998年九州場所  東序ノ口三十二枚目  2勝5敗
1999年初場所   東序ノ口三十三枚目  2勝5敗
1999年春場所   西序ノ口二十六枚目  2勝5敗
1999年夏場所   東序ノ口六枚目    2勝5敗
1999年名古屋場所 東序ノ口二十二枚目  5勝2敗
1999年秋場所   東序二段百三十四枚目 1勝3敗3休
1999年九州場所  東序ノ口九枚目    2勝5敗
2000年初場所   西序ノ口二十一枚目  4勝3敗
2000年春場所   西序二段百二十六枚目 4勝3敗
2000年夏場所   西序二段九十八枚目  1勝2敗4休
2000年名古屋場所 東序二段百三十二枚目 休場
2000年秋場所   西序ノ口四十枚目   4勝3敗
2000年九州場所  東序ノ口三枚目    5勝2敗
2001年初場所   西序二段八十八枚目  1勝3敗3休
2001年春場所   東序二段百十八枚目  3勝4敗
2001年夏場所   西序二段百十九枚目  4勝3敗
2001年名古屋場所 東序二段九十枚目   休場
2001年秋場所   東序ノ口三十八枚目  休場
2001年九州場所  番付外        前相撲出場
2002年初場所   西序ノ口三十枚目   5勝2敗
2002年春場所   西序二段九十四枚目  4勝3敗
2002年夏場所   西序二段六十九枚目  2勝5敗
2002年名古屋場所 西序二段百枚目           3勝4敗
2002年秋場所   東序ノ口筆頭     3勝4敗  
2002年九州場所  西序ノ口十枚目    5勝2敗
最高位 序二段69  通算70勝86敗33休
通算出場回数 156  勝率 44.9%
 第一期生の中でいちばん陽気な人でしたが、このごろはすっかり変わってきました。手に怪我をして、稽古もあまりできない状態がつづいたあと、今のままではいられないという意識が目覚めてきたようです。しかし、根はやさしい性格なのです。最近では、稽古態度も成長して来ました。懸命にやりながらも、しかも余裕を残しているありさまは、明らかに大人としての自信と常識ができて来たことを示すものです。
 前から番付運が悪かった上、三年も前からひきずっている手の怪我に加えて、右膝をやられてしまいました。この状態では、いい相撲を取れといってもとても無理です。2001年名古屋場所以来の休場のため、九州場所ではついに番付外にまで落ちてしまいました。精神面でも、ひどく落ち込んでいるようです。回復と健闘を祈ってやみません。
 その2001年九州場所では、ようやく前相撲を取ることができて番付復帰がかない、つづく2002年初場所では、五勝二敗の好成績をあげました。春場所でも四勝三敗で勝ち越し、夏場所番付では自己最高位を更新したのですが、結果は残念なことに三場所連続の負け越しでした。しかし九州場所では持ち直し、五勝二敗を獲得しました。
 楢橋の引退により、桜島はただ一人の新生陸奥部屋第一期生です。頑張ってください。
 
 
 

 霧錦 隆雄(きりにしき たかお)

西序二段二十七枚目
本名 佐々木隆雄  1982年6月15日生
茨城県藤代町出身  1998年秋場所入門
185cm 120kg
1998年九州場所  西序ノ口四十五枚目  4勝3敗 
1999年初場所   西序ノ口六枚目    3勝4敗
1999年春場所   東序ノ口十一枚目   4勝3敗
1999年夏場所   西序二段百二十八枚目 2勝5敗
1999年名古屋場所 西序二段百五十五枚目 4勝3敗
1999年秋場所   東序二段百二十五枚目 4勝3敗
1999年九州場所  西序二段百枚目    1勝6敗
2000年初場所   西序二段百三十三枚目 5勝2敗
2000年春場所   東序二段八十枚目   3勝4敗
2000年夏場所   東序二段九十八枚目  4勝3敗
2000年名古屋場所 東序二段七十四枚目  2勝5敗
2000年秋場所   西序二段百二枚目   5勝2敗
2000年九州場所  西序二段五十五枚目  3勝4敗
2001年初場所   西序二段八十三枚目  3勝4敗
2001年春場所   東序二段九十九枚目  休場
2001年夏場所   西序ノ口十三枚目   休場
2001年名古屋場所 番付外        休場
2001年秋場所   番付外        休場
2001年九州場所  番付外        前相撲出場
2002年初場所   東序ノ口三十枚目   5勝2敗
2002年春場所   西序二段九十三枚目  5勝2敗
2002年夏場所   西序二段四十八枚目  4勝3敗
2002年名古屋場所 東序二段二十七枚目     4勝3敗
2002年秋場所   西序二段六枚目    2勝5敗
2002年九州場所  西序二段二十七枚目  4勝3敗
最高位 序二段6  通算71勝69敗14休
通算出場回数 140  勝率 50.7%
 まじめで礼儀正しく、しかも個性の強い人です。一生懸命に稽古にはげみ、身長、体重も十分、素質にもめぐまれていますが、今のところは怪我のため、本来の実力が出しつくせないようです。日常生活ではめがねをかけ、控えめな性格で、好きで選んだ相撲の道をひとすじに進んで行くにはどうすればいいのかということも完全に心得ているようです。
 現在は右手のひどい怪我のため、大変なハンディーを背負っています。しかし、長期的には、怪我さえ治れば、心配なしに前途に期待をかけていい好青年だといえます。早くよくなるように願うばかりですが、まだ回復せず、2001年春場所以来、連続四場所の休場は、じつに気の毒なことでした。ようやく九州場所で前相撲を取り、番付復帰はかないましたが、手首の傷がまだ大きく膨らんでいるのは心配です。この状態で2002年初場所、春場所とつづいての五勝二敗はまことに貴重で、夏場所番付で自己最高位を更新したあと、通算で連続四度目の勝ち越しをきめ、また最高位更新となりました。本人は、成績が順調に上がっていることで、いくらか安心感が戻ってきたような感じでしたが、秋場所では残念なことに負け越しでした。でも九州場所ではまた勝ち越しました。
 
 

 霧桜 剛(きりざくら つよし)
(末永 司 改め

東序二段六十二枚目
1983年5月26日生  鹿児島県隼人町出身
本名 末永 司  2002年夏場所から 霧桜 剛
1999年春場所入門
176cm 92.5kg
1999年夏場所   東序ノ口四十一枚目  3勝4敗
1999年名古屋場所 東序ノ口三十四枚目  1勝6敗
1999年秋場所   東序ノ口四十四枚目  3勝4敗
1999年九州場所  東序ノ口三十二枚目  4勝3敗
2000年初場所   西序二段百四十六枚目 2勝5敗
2000年春場所   東序ノ口十五枚目   2勝5敗
2000年夏場所   東序二段百五十七枚目 3勝4敗
2000年名古屋場所 西序ノ口十一枚目   4勝3敗
2000年秋場所   東序二段百二十四枚目 2勝5敗
2000年九州場所  西序ノ口十二枚目   4勝3敗
2001年初場所   西序二段百九枚目   2勝5敗
2001年春場所   西序ノ口五枚目    3勝4敗
2001年夏場所   西序二段百二十二枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 西序ノ口七枚目    4勝1敗2休
2001年秋場所   東序二段百六枚目   3勝4敗
2001年九州場所  東序二段百二十枚目  4勝3敗
2002年初場所   東序二段九十五枚目  3勝4敗
2002年春場所   西序二段百十枚目   2勝5敗
2002年夏場所   西序ノ口五枚目    5勝2敗
2002年名古屋場所 東序二段七十二枚目       3勝3敗1休  
2002年秋場所   西序二段八十八枚目  4勝3敗
2002年九州場所  東序二段六十二枚目  2勝5敗
最高位 序二段62  通算66勝85敗3休
通算出場回数 151  勝率 43.7%
 目立ちたがらないので、稽古場でも人の陰にかくれて裏役にまわってしまう傾向があり、あまり注意をひきませんが、よく見ると、あわてずさわがず、自分なりの稽古をちゃんとやっているようです。

 長い間、膝の状態が悪く、序ノ口と序二段の間を行き来する状態が続いていました。2001年名古屋場所では、二回の休場で心配させましたが、その後四勝一敗の好成績をあげました。驚くべきことです。この勢いがつづき、今までの沈滞から完全に抜け出せるよう、祈ってやみません。秋場所番付では序二段に復帰し、自己最高位に達していましたが、結果は惜しくも三勝四敗でした。しかし九州場所では、四勝三敗で勝ち越し、盛りかえして、ふたたび自己最高位を更新しましたが、2002年初場所では、一敗差の負け越し、春場所は二勝五敗でした。
 2002年夏場所からは、霧桜と改名し、はじめての五勝二敗の好成績をあげ、名古屋場所番付では自己最高位を更新しました。これが自信となって、さらに伸びて行くことを切に祈ります。
 左足首の故障で名古屋場所最後の取組は休場になりましたが、秋場所では四勝三敗で、陸奥部屋九人の勝ち越し組の一人となりました。それだけの実力は十分なのですから、これからも地道に勝ち越しを積み重ねて行けば、将来は明るいといえます。九州場所番付では自己最高位でしたが、残念ながら負け越しました。
 
 
 

 霧の若 太郎(きりのわか たろう)
(岡本 将之 改め

東三段目十二枚目
1983年9月18日生  熊本県長陽村出身
本名 岡本将之 2001年秋場所から霧の若太郎となる
1999年春場所入門
177cm 110kg
1999年夏場所   西序ノ口三十二枚目  6勝1敗
1999年名古屋場所 東序二段九十五枚目  2勝5敗
1999年秋場所   西序二段百十九枚目  3勝4敗
1999年九州場所  東序二段百三十五枚目 6勝1敗
2000年初場所   東序二段五十四枚目  2勝5敗
2000年春場所   西序二段七十九枚目  5勝2敗
2000年夏場所   西序二段三十四枚目  3勝4敗
2000年名古屋場所 東序二段五十三枚目  4勝3敗
2000年秋場所   東序二段三十三枚目  3勝4敗
2000年九州場所  東序二段五十二枚目  5勝2敗
2001年初場所   東序二段十二枚目   5勝2敗
2001年春場所   西三段目七十七枚目  6勝1敗
2001年夏場所   東三段目二十一枚目  3勝4敗
2001年名古屋場所 東三段目三十五枚目  4勝3敗
2001年秋場所   西三段目二十枚目   4勝3敗
2001年九州場所  東三段目九枚目    3勝4敗
2002年初場所   東三段目二十二枚目  4勝3敗
2002年春場所   東三段目十一枚目   3勝4敗
2002年夏場所   西三段目二十七枚目  4勝3敗
2002年名古屋場所 西三段目十二枚目        5勝2敗
2002年秋場所   西幕下五十一枚目   2勝5敗
2002年九州場所  東三段目十二枚目   5勝2敗
最高位 幕下51  通算87勝67敗
通算出場回数 154  勝率 56.5%
 心身ともに強固、活発で、筋肉もよくついています。沈着で、一見気楽な性分のように見えますが、プライドが高く、どんなつらいことでもきちんとやりとげます。昇進も早く、1999年の夏場所では、序ノ口優勝の候補になっていたのですが、相手の韓国出身力士が約二倍も重く、惜しくも敗れて優勝をのがしてしまいました。通算勝率を見ればわかるように、同期生のうちで、もっとも優秀な部に入る実力者であることはまちがいないところでしょう。
 2000年名古屋場所でも勝ち越し、部屋では当時三段目の和歌嵐(その後引退)、藤本(現在は霧の藤)に次ぐ番付順にまで進んでいました。秋場所では残念なことに、一番の差で負け越しでしたが、九州場所は五勝二敗の好成績で、自己最高位に達していました。
 2001年初場所では、期待にたがわず、ふたたび五勝二敗という見事な成績をあげ、待望の三段目への昇進がついに実現しました。この地位を守り抜くのには、かなりの苦労が伴うことが心配でしたが、春場所でもなんと六勝一敗と大勝ちして、実力と忍耐でかちとった三段目であることを、立派に見せつけてくれました。
 名古屋場所でも、古株力士のひしめいている現在の地位で勝ち越したことは、評価すべきです。かくして、秋場所では、自己最高位を更新し、しかもまた勝ち越して、九州場所番付では三段目九枚目にまで進み、二場所つづけて陸奥部屋若手力士のトップに立ちました。この勢いがつづいて行きさえすれば、将来も陸奥部屋の希望の星となることは、ほぼ確実だといっていいでしょう。怪我にはくれぐれも気をつけて、十分に実力が発揮できるよう、祈ってやみません。
 九州場所では、惜しくも一敗差で負け越し、新番付では十三枚下げられましたが、これは三段目上位には、経験を積んだ古豪力士たちがひしめいているためと考えられます。
 2002年初場所ではめでたく勝ち越しましたが、春場所ではまた一敗差で負け越しとなりました。しかし夏場所は勝ち越し、名古屋場所では五勝二敗の好成績です。
 秋場所は幕下で挑戦することになりました。こんな高いレベルに上がるというのは陸奥部屋の若手では霧の藤に続いて二人目です。これを機に、なんとか幕下の厚い壁を打ち破ってもらいたいものですが、今のところ、右膝にテーピングがあり、心配です。秋場所の結果は二勝五敗で、このためにせっかく勝ち取った幕下の地位を失うことになりました。しかし霧の若の地道な底力を考えれば、このような不成績は一時の過渡的現象に過ぎず、必ず盛りかえして行くことはまちがいないと考えていいと思います。はたして九州場所では、五勝二敗をかちとって実力を示しました。
 
 
 

 成井 智史(なるい さとし)

西序二段百十枚目
1979年11月30日生  千葉県八千代市出身
1999年春場所入門
178cm 83.5kg
1999年夏場所   東序ノ口五十六枚目  5勝2敗
1999年名古屋場所 東序二段百六十六枚目 3勝4敗
1999年秋場所   西序ノ口十八枚目   2勝5敗
1999年九州場所  西序ノ口二十六枚目  3勝4敗
2000年初場所   西序ノ口二十三枚目  2勝5敗
2000年春場所   西序ノ口二十五枚目  4勝3敗
2000年夏場所   東序二段百二十六枚目 3勝4敗
2000年名古屋場所 東序二段百四十一枚目 2勝5敗
2000年秋場所   東序ノ口十七枚目   4勝3敗
2000年九州場所  西序二段百十九枚目  3勝4敗
2001年初場所   西序ノ口四枚目    5勝2敗
2001年春場所   西序二段八十四枚目  1勝6敗
2001年夏場所   東序二段百十五枚目  4勝3敗
2001年名古屋場所 西序二段八十六枚目  4勝3敗
2001年秋場所   西序二段六十六枚目  4勝3敗
2001年九州場所  西序二段四十四枚目  2勝5敗
2002年初場所   東序二段七十三枚目  3勝4敗
2002年春場所   西序二段八十八枚目  3勝4敗
2002年夏場所   西序二段百五枚目   5勝2敗
2002年名古屋場所 西序二段五十四枚目     3勝4敗
2002年秋場所   西序二段七十二枚目  1勝6敗
2002年九州場所  西序二段百十枚目   休場
最高位 序二段44  通算66勝81敗
通算出場回数 147  勝率 44.9%
 内気で控えめな青年で、部屋では貴島が辞めてからは最軽量ですが、筋肉はつき始めています。軽いというハンディーで負けることが口惜しくてたまらないらしく、懸命に稽古をしています。しかし冷静さが足りないので、いざというときにあわててしまって負けることがあるようです。実力は現在の成績以上と見てまちがいないのですから、一歩ずつ実績をあげて行けば、相撲をえらんだのはまちがっていなかったと、いつかは自分に対して証明できるようになれるかもしれません。
 2000年秋場所でも着実に勝ち越して、九州場所では自己最高位に達していたのですが、惜しくも三勝四敗におわり、またしても序ノ口に転落してしまいました。2001年初場所の番付は、序二段の三勝四敗力士にとっては特にひどかったようです。あまりといえば不当なことでした。
 しかしはたして、初場所では、五勝二敗というすばらしい成績をあげました。これは、成井の実力を見れば、当然といえば当然のことかもしれませんが、軽量の上に指の腫れ上がったハンディーを克服し、よくもここまでやりとげたと、心からほめていいと思います。春場所番付での序二段復帰、自己最高位到達は期待されていた通りですが、昇進後の序二段というところは、少しの勝ち負けでも大幅に響いて来る地位で、これは本人が身をもって体験しているきびしい現実です。その意味で春場所の一勝六敗は痛かったのですが、これで気を落とすことなく、夏場所、名古屋場所、秋場所と三場所連続勝ち越したのは、まことにうれしいことです。
 自己最高位をさらに更新したことは喜ばしいことですが、この地位はやや荷が重い(いわゆる家賃が高い)のか、それとも体調が悪いのか、九州場所の成績は残念ながらかんばしくなく、番付もかなり落ちました。初場所、春場所とつづいて一敗差の負け越しです。でもこれで落胆せず、今後も怪我にはくれぐれも気をつけ、地道な努力が報いられるよう、祈ってやみません。
 3月12日朝から、突然右目の下あたりが大きく腫れ、原因が分からずみんなが心配しました。
 でも夏場所では、めでたく五勝二敗をあげ、ひさしぶりの存在感を見せてくれました。本当におめでとう。
 2002年名古屋場所が始まる前に、ぎっくり腰をやってしまい、そのため成績はあがりませんでした。名古屋場所千秋楽には、成井は角界最年長の一ノ矢と対戦することになり、勝ちました。この大ベテランとの対決は、まことに印象的でした。ただし、この時、左肩を脱臼してしまい、九月場所が終わってから手術を受ける予定です。秋場所には怪我を押して出ましたが、ひどいハンディーを負っていることは明らかで、出場しただけでも立派だといえます。しかし、手術のため十一月場所には出られませんでした。幸い、公傷と認定され、今はリハビリに励んでいます。
 
 

 肥後錦 幸司(ひごにしき こうじ)
土佐 改め)

西序二段十二枚目
本名 土佐孝司  2002年初場所から 肥後錦幸司
1980年7月18日生  熊本県菊陽町出身
1999年春場所入門
174cm 139.5kg
1999年夏場所   東序ノ口二十枚目   5勝2敗
1999年名古屋場所 東序二段百四十二枚目 6勝1敗
1999年秋場所   西序二段六十枚目   4勝3敗
1999年九州場所  東序二段三十六枚目  2勝5敗
2000年初場所   西序二段六十二枚目  3勝4敗
2000年春場所   東序二段八十一枚目  5勝2敗
2000年夏場所   東序二段三十七枚目  4勝3敗
2000年名古屋場所 西序二段十七枚目   2勝5敗
2000年秋場所   東序二段四十七枚目  2勝5敗
2000年九州場所  西序二段七十三枚目  6勝1敗
2001年初場所   東序二段四枚目    3勝4敗
2001年春場所   西序二段五十九枚目  3勝4敗
2001年夏場所   西序二段三十六枚目  5勝2敗
2001年名古屋場所 東三段目九十九枚目  6勝1敗
2001年秋場所   東三段目三十八枚目  1勝6敗
2001年九州場所  東三段目七十三枚目  2勝5敗
2002年初場所   東序二段三枚目    2勝5敗
2002年春場所   東序二段三十七枚目  3勝4敗
2002年夏場所   西序二段五十四枚目  5勝2敗
2002年名古屋場所 西序二段十四枚目           3勝4敗
2002年秋場所   東序二段三十五枚目  4勝3敗
2002年九州場所  西序二段十二枚目   6勝1敗
最高位 三段目38  通算82勝72敗
通算出場回数 154  勝率 53.2%
 若手弟子の中では最重量で、陸奥部屋にはめずらしく、いかにも押し相撲向きの身体をしていますが、動きに正確さがあり、四つ相撲も取れます。通算成績もよく、期待されます。性格としては気まぐれなところが少なく、控えめで、目立ちたがる傾向はまったく見られません。はっきりした、率直な性格で、落ち着いていて、感じのいい若者といえます。
 以前は相撲の成績にあまりバラツキがないことが特徴でしたが、2000年名古屋場所、秋場所ではつづけて負け越しました。しかし、総体的には、もっとも有望な力士の一人であることはまちがいありません。期待にたがわず、九州場所では六勝一敗と大勝ちし、自己最高位の序二段四枚目にまで進みました。この調子で行けば、前途は明るいと言えるでしょう。
 はたして2001年夏場所では五勝二敗の好成績をあげ、三段目への昇進がかないました。そればかりでなく、つづく名古屋場所でも六勝一敗と大勝ちしています。三段目の厚い壁を見事に破ったわけで、この成果は高く評価されるべきです。秋場所番付では、自己最高位を大きく更新して部屋の上位力士の列に入ることになりましたが、結果は痛恨の一勝六敗でした。不調はその後もつづき、2002年初場所番付では序二段に転落してしまいました。しかし夏場所では、しばらくぶりに実力を発揮し、五勝二敗の好成績をあげました。
 名古屋場所前に、膝の手術を受け、そのためよちよち歩きしかできず、膝を曲げるのも難しそうでした。このような状態での成績としては、三勝四敗は高く評価すべきでしょう。しかし脚の状態はよくないらしく、長い間病院に通い、いかにも歩きづらそうでした。この怪我を負いながら秋場所で四勝三敗で勝ち越したのは、特記に値することだといえます。つづいて九州場所でも、六勝一敗の好成績をあげています。
 
 
 

 霧の藤 広明(きりのふじ こうめい)
(霧の富士 改め

東幕下二十一枚目
本名 藤本智彦  1981年10月29日生
2000年初場所から霧の富士 同秋場所から霧の藤
佐賀県小城郡出身 1999年夏場所入門
183.5cm 121kg
1999年名古屋場所 西序ノ口四十六枚目 6勝1敗
1999年秋場所   東序二段百三枚目  4勝3敗
1999年九州場所  東序二段七十九枚目 5勝2敗
2000年初場所   東序二段三十八枚目 3勝4敗
2000年春場所   東序二段五十六枚目 5勝2敗
2000年夏場所   東序二段十四枚目  2勝5敗
2000年名古屋場所 西序二段三十八枚目 3勝4敗
2000年秋場所   西序二段六十七枚目 6勝1敗
2000年九州場所  東三段目九十八枚目 5勝2敗
2001年初場所   西三段目六十四枚目 2勝5敗
2001年春場所   東三段目九十枚目  5勝2敗
2001年夏場所   西三段目五十九枚目 6勝1敗
2001年名古屋場所 東三段目六枚目   2勝5敗
2001年秋場所   東三段目三十枚目  3勝4敗
2001年九州場所  西三段目四十八枚目 7勝0敗 三段目全勝優勝
2002年初場所   西幕下二十九枚目  0勝7敗
2002年春場所   西三段目三枚目   4勝3敗
2002年夏場所   西幕下五十五枚目  4勝3敗
2002年名古屋場所 東幕下四十五枚目    4勝3敗
2002年秋場所   東幕下三十八枚目  5勝2敗
2002年九州場所  東幕下二十一枚目  3勝4敗
最高位 幕下21  通算83勝63敗1休
通算出場回数 146  勝率 56.8%
 もとサッカーをやっていたスポーツマンで、運動神経は抜群、ほがらかでにこにこと明るい性格で、気が合いさえすればおしゃべりもきらいではないようです。稽古で、どんなつらいことをやってもいやな顔を見せません。相撲をはじめてから、まだわずかにしかならないのに、たちまちにして進歩し、筋肉もつき、成績も先輩たちを追い越してあっという間に部屋のトップランナーの列に入ってしまいました。稽古でも、今までになかった攻撃性が出て来て、当って行くさまはまさに人間魚雷の凄さを見せています。

 2000年秋場所ではみごとな成績をあげ、通算成績でも部屋のトップクラスに入ったのは立派なものです。その結果、めでたく三段目へ昇進し、九州場所でもふたたび好成績で、初場所番付では自己最高位に達しました。
 2001年初場所から、霧の富士という大きな四股名を名乗ることになり、期待されていたのですが、痛恨の二勝五敗を喫してしまいました。三段目の壁はやはり厚いと言えるのでしょうか。その壁を、春場所ではついに破ったのです。壁を乗り越えての五勝二敗なのですから、その重みは、格別のものと言えます。そればかりではなく、夏場所でも快進撃はさらにつづき、六勝一敗という大成果をあげました。驚嘆に値することだといえます。しかし残念なことに、名古屋場所は不調でした。秋場所からは、霧の藤と改名することになりましたが、その秋場所では三勝四敗と、痛恨の負け越しになりました。しかし全体的には、陸奥部屋の希望の星のひとつであることは間違いないのですから、怪我には気をつけて、さらに健闘を期待します。
 九州場所十三日目、全勝で三段目優勝を勝ち取りました。おめでとう。陸奥部屋にとっては、白馬の序二段優勝につづいて、はじめての三段目優勝を、霧の藤はなしとげたわけです。
 この結果、2002年初場所番付では西幕下二十九枚目にまで大昇進し、大先輩の星誕期、琉鵬、霧の海を追い越す地位に進みました。入門以来ずっと相撲を教わってきた星誕期を抜いたというのは、なんといっても凄いことです。しかし、どう見てもこれは上がり過ぎた感じで、これほどの地位を守り抜いて行くことがどんなに難しいかは、本人もよくわかっているでしょう。夢にも慢心することなく、虚心坦懐に一層の精進を続けて行くことができれば、将来は明るいといえます。
 師匠をはじめ心配していた通り、初場所では幕下の地位を守りきれず、全敗してしまいました。でも三段目で迎えた春場所では、四勝三敗で勝ち越し、夏場所番付では幕下に復帰できました。この地位での四勝三敗は、まことに貴重です。つづいて名古屋場所でも勝ち越しました。この三回連続の勝ち越しからみると、幕下の厳しい地位に馴れてきたと言えるでしょう。本人も満足そうな顔をしています。夏中、上位との稽古を懸命にやっていました。強い相手との猛稽古が身上のようなもので、中でも十文字にはどうしても勝てないらしいのですが、負けても負けてもものともしないでぶつかっています。
 秋場所での五勝二敗、九州場所番付での自己最高位到達は、この火を噴くような稽古のたまものに他なりません。実に立派なことです。九州場所では惜しくも一敗差で負け越しましたが、古豪力士たちのひしめいている幕下上位では、やむを得ないことと言わなければならないでしょう。

 なお、霧の藤の紹介記事は、『相撲』2001年12月号、『大相撲』2001年12月号と2002年1月号、『NHK大相撲中継』2002年1月号など、各誌に掲載されています。
 
 
 

 白馬 毅はくば たけし)

西三段目筆頭
本名 アリオンバヤル・ウヌルジャラガラ 通称 ウヌル
1983年5月5日生 モンゴル、ウランバートル出身
1998年12月、見習い生として陸奥部屋に入る
翌年末、立田川部屋に入門し、「白馬」の四股名で2000年初場所初土俵
(1999年12月24日新弟子検査に合格)
185.5 cm、99.5 kg
2000年春場所   序ノ口三十五枚目  4勝3敗
2000年夏場所   序二段百三十枚目  5勝2敗
2000年名古屋場所 序二段八十枚目   5勝2敗
2000年秋場所   東序二段三十七枚目 1勝1敗5休
2000年九州場所  東序二段七十二枚目 休場
2001年初場所   東序二段七十二枚目 7勝0敗 序二段全勝優勝
2001年春場所   西三段目六十八枚目 4勝3敗
2001年夏場所   西三段目五十枚目  4勝3敗
2001年名古屋場所 東三段目三十四枚目 3勝4敗
2001年秋場所   西三段目五十一枚目 4勝3敗
2001年九州場所  西三段目四十枚目  4勝3敗
2002年初場所   西三段目二十七枚目 4勝3敗
2002年春場所   東三段目十四枚目  2勝5敗
2002年夏場所   西三段目四十枚目  4勝3敗
2002年名古屋場所 東三段目二十六枚目 2勝5敗
2002年秋場所   東三段目五十一枚目 6勝1敗
2002年九州場所  西三段目筆頭    5勝2敗
最高位 三段目1   通算64勝43敗12休
通算出場回数 107   勝率 59.8%
 ウヌルは、一年もの間、陸奥部屋に起居し、熱心に稽古にはげんでいましたが、1999年末に立田川部屋に移ることになりました。これは、部屋ごとの外国人数が当時二名までにおさえられていた(現在はさらにきびしくなって一部屋一名だけ)ので、すでに星誕期と星安出寿が在籍していた当時の陸奥部屋には外人枠がなかったという事情によるものです。しかし、陸奥部屋が育てた力士であることはまちがいありません。立田川部屋の合併により、この人は出世して古巣に戻って来たことになります。
 このごろでは、敏捷な取り口に独特の持ち味が出て来ました。すでに自分の相撲というものを身につけているのです。将来が楽しみな、いい力士といえます。

 2000年は秋場所以来、足首のひどい怪我で停滞中でしたが、2001年にはみごとな復活を見せました。初場所では全勝で、千秋楽の優勝決定戦でも勝ち、序二段での全勝優勝を果たしました。新生陸奥部屋としては初の優勝です。しかも、もともと陸奥部屋が育てた弟子が、初優勝を飾ったのですから、これほど喜ばしいことはありません。おめでとう。よくやってくれました。
 その結果、三段目に昇進し、春場所番付では岡本(現在霧の若)、霧の富士(霧の藤)、和歌嵐(その後引退)を抜いて部屋の若手では最高の位階に進みました。当然、今までとはくらべものにならないような強い相手と対戦することになり、これにどう対応して行けるかということが、今後の課題になっていたのですが、三段目の厚い壁を破り、春場所、夏場所でみごとに連続勝ち越しを達成したことは、その意味でまことに立派なものといえます。しかし名古屋場所では、惜しくも一敗差で負け越しとなりました。左腕と足にテーピングをしていて、怪我でハンディを負っているのでしょう。でも、陸奥部屋のホープであることには変わりはありません。秋場所、九州場所でも、怪我を乗り越えてめでたく勝ち越しました。
 勝ち越しはその後もつづき、2002年初場所番付、春場所番付とつづいて自己最高位を更新していましたが、春場所では惜しくも今までで最悪の二勝五敗となりました。しかし夏場所では持ち直し、四勝三敗で勝ち越しました。名古屋場所ではまたもや二勝五敗でしたが、それよりも心配なのは、気力を失っているのが目に見えたことです。左足にテーピングをしているので、そのせいかと思うと、本人は足なんかなんでもないと言っているのです。白馬のように将来のある、優秀な若者が、気落ちしているように見えるというのはなんとも残念なことで、なんとしても元気をとりかしてもらいたいと思います。
 本人は、そのようなことは心配はいらない、ちゃんと頑張るから大丈夫だと、微笑みながら言っていますし、稽古を見ても、懸命な中にも余裕があり、落ち着いた表情をしているという印象を受けます。また何よりも、秋場所で六勝一敗という、めざましい成績をあげたことを見れば、好調であることはまちがいなく、いろいろな心配は完全に消えてなくなったのだということを、みごとに証明しているのです。部屋の若いホープは健在です。九州場所番付では三段目筆頭、自己最高位に達しています。しかも五勝二敗の好成績をあげましたので、2003年初場所での幕下昇進はまちがいありません。今後の課題は、重量の古豪力士たちと互角で立ち向かって行けるかということでしょう。
 
 
 

 内山 直也(うちやま なおや)

東序ノ口十四枚目
1985年4月5日生 名古屋市名東区出身
2001年春場所入門 3月3日新弟子検査合格 新序二番出世
172.5cm 115kg
2001年春場所   前相撲       二番出世
2001年夏場所   東序ノ口三十六枚目 3勝4敗
2001年名古屋場所 東序ノ口二十八枚目 3勝4敗
2001年秋場所   西序ノ口二十四枚目 4勝3敗
2001年九州場所  東序二段百十七枚目 3勝4敗
2002年初場所   西序ノ口筆頭    2勝5敗
2002年春場所   東序ノ口十五枚目  3勝4敗
2002年夏場所   西序ノ口九枚目   3勝4敗
2002年名古屋場所 西序ノ口十四枚目     4勝3敗
2002年秋場所   西序二段百六枚目  1勝6敗
2002年九州場所  東序ノ口十四枚目  3勝4敗
最高位 序二段106  通算29勝41敗
通算出場回数 70 勝率 41.4%
 久しぶりの新弟子です。春場所で前相撲を取り、二番出世し、夏場所、名古屋場所とつづいて三勝四敗の成績でした。最初の出足としては悪くないといえます。
 体重は十分で、相撲の早い動きにもかなりのところまでついて行けるようです。これで経験を積めば、将来の見通しは明るいでしょう。秋場所ではめでたく勝ち越し、九州場所番付では自己最高位、序二段への昇進がかないました。これを契機として将来への道が開けて行くよう、期待してやみません。
 九州場所では、出足はよかったのですが、疲れたのか、後半で三連敗してしまいました。一番の差で勝ち越せたのに、惜しいことです。不調はその後も続いています。今は序二段への復帰、定着を当面の目標として、頑張るだけで十分だと思います。
 名古屋場所はやっと勝ち越しました。二度目の勝ち越しで、秋場所番付では最高位に達していましたが、惜しくも一勝六敗、九州場所でも一敗差の負け越しでした。
 
 
 

 床大 (とこだい)

三等床山
本名 大橋太司
1970年7月24日生 新潟県出身
1986年九州場所入門
 控えめな人で、目立ちませんが、なんでもできるふしぎな才能の持ち主です。この人の結ったまげはしっかりしていて、なかなか崩れません。わかりの早いことも驚異的で、一言いえば十を察するといったタイプです。稽古の様子もよく見ていて、自分もさまざまの準備運動をします。もし身長がもう少しあれば、力士になりたかったのだそうですが、今では床山になってやはりよかったと言っています。料理をするのは好きで、手際もいいし、この人がちょっと手を加えるだけで、ちゃんこがひと味違います。お酒を飲み過ぎるのが玉に瑕だということを聞いたことがありますが、めずらしい好人物です。あくまでも分を忘れない、立派な人で、技術、人柄ともに、隠れた名床山だといえます。
 
 
 
 
 
 

以下は相撲協会に属していないメンバーです。
 

 吉永 奈穂子(よしなが なおこ)

おかみさん
鹿児島県出身
 おつきあいが多すぎるので、ほんとうにたいへんです。みんなが地方場所や合宿などに出ていてからっぽになった部屋の留守番をする時などは、おかみさんの毎日は特につらくなります。ひっきりなしに一日中鳴り続ける電話の番 ― ジャーナリスト、後援者、知人などのほか、弟子たちの家族の人たちが安否をたずね、ちゃんとやっているのかなどと聞いてくるのに答えたり、一身上の相談にのったりするのもおかみさんの仕事になります。また、これら「子供たち」の悩みを聞いてやり、なぐさめたり、なだめたり、すかしたりなどの心理的な問題のほか、もめごとの仲裁などに狩り出されることもあります。とにかく入れ替わり立ち替わりに、居室に出たり入ったりされるわけです。お風呂にまで入って来ることもあるそうです !!! このストレスはなみたいていのものではありません。健康がすぐれないので、ダウンしてしまうこともしばしばです。
 
 
 

 北原 敏文(きたはら としふみ)

マネージャー
1949年12月22日生  長崎県出身
2000年1月より親方付マネージャーとして陸奥部屋に入る
 前には板東英二、上岡龍太郎のマネージャーをしていたプロです。以前からの霧島ファンで、陸奥親方のためになることならなんでも懸命にやります。親方の多忙なスケジュールを調整する仕事のほか、外部との連絡、部屋の運営、PRなど、一切を総括しています。陸奥部屋にはなくてはならない人です。
 
 




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